永山布政所について 伊藤塾 伊藤利光塾長

2012-08-29

永山布政所について

伊藤塾 伊藤利光塾長

 

 

天領とは、江戸時代の幕府直轄の領地のこと。軍事、交通の要衝と金銀山を直轄地にし、年貢と金銀を幕府の収入にした。全国に47ケ所(代官所60数ケ所)あり、郡代、代官ともに勘定奉行に属した。

日田の天領は、1593年(文禄2年)豊臣秀吉の太閤蔵入地になることから始まる。大名「毛利高政」、初代代官「宮本長次郎豊盛」は隈に日隈城を築城し、隈町ができた。1601年(慶長6年)には、徳川家康の領地になり代官小川壱岐守光氏が豆田に永山城を築城、1616年(元和2年)譜代大名・石川忠総の領地になり日田藩が成立し豆田町ができた。初代代官から最後の郡代・窪田鎮勝までの275年間、45代の代官・郡代が日田を治めた。

代官とは、10万石未満の幕府直轄地の役職で、年貢収納と民政を掌った。代官所は全国に60数ケ所 あった。また、郡代とは、10万石以上の幕府直轄地の役職で年貢収納と民政を掌った。郡代は、関東郡代(勘定奉行)、笠松郡代、高山郡代、そして日田郡代の全国に4ケ所のみであった。

それぞれの郡代役所の目的であるが、関東郡代は1806年廃止されるが、東京日本橋で勘定奉行所が引き継いだ。笠松郡代は、東海道、中仙道の合流点で京都と江戸の中間の軍事拠点担う。また、西国筋郡代は日田にあり、16万石。九州の外様大名の御目付拠点である。高山郡代は12万石、江戸の木材供給地となった。 江戸幕府での郡代の地位は、現代でいうと大企業の課長クラス。日田にあった西国筋郡代は、江戸幕府の職名で勘定奉行に属し、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、筑前の幕領を管轄した。1639年には、永山布政所を設置している。管内の収税、庶務、訴訟を掌り、税収は最大で16.4万石あった。これは、松山の伊予藩15万石より多い数字である。しかし、石高は多いが地元で消費されず江戸に送られたため、藩のような繁栄はなかった。

九州には、日田に設置された西国筋郡代陣屋の他、出張陣屋が大分の四日市、大分の高松、宮崎の富高、天草、そして長崎奉行所があった。西国郡代役所詰めの役人数は、日田詰が16名、他合わせて37名であった。

西国筋郡代陣屋は、明治維新後解体され、建造物は何一つ残っていない。月隈公園の南側に跡地があるが、住宅地となり民家が建っている。西国筋郡代陣屋の絵図と平面図が残っている。絵図は 1825年前後、平面図は1830年前後のものである。絵図には、豆田の道路や長福寺と八坂神社、瓦葺と茅葺き屋根の家々が見られ、1864年の絵図にはある豆田水路はまだ描かれていない。また、郡代陣屋の周りに家なく、月隈公園に桜が見られ、正面には神社がある。瓦屋根付きの白壁土塀で、建物は平屋建てで瓦葺きの屋根である。さらに、平面図からは、 役人官舎が13軒あり、住宅の仕切りは竹垣、湯殿があることなどが見て取れる。

現在の日田の町割や文化の基盤は西国筋郡代の時代に形作られた。豆田は、国選定重要伝統的建造群保存地区、咸宜園は国指定史跡で世界遺産登録も推進されている。掛屋は、草野家・国重要文化財、広瀬家、山田家・国登録有形文化財で、長福寺は国重要文化財、祇園山鉾は国指定重要無形民俗文化財、小鹿田焼は国指定重要無形文化財と多くの西国筋郡代時代の遺産がある。

 

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