青柳寿人会友の卓話

2013-08-07

 

 

会員卓話

青柳会友

六月の夜間例会の時でありましたか、橋本会長とちょっと話をしている中で戦争の話が出まして、いくつか話をしましたところ今は実体験を話をする方がいないので、戦争の話をして頂けたらということでしたら、プログラム委員会の宮崎さんからぜひ卓話をお願いする、すぐ話がきました。そのうちまとめられると思っていましたら時間もなく、今日は思いついたことを適当に話そうと思っています。

私は昭和2年生まれで82歳になります。このクラブでもっとも年寄りになると思います。昭和の一桁の前半生まれは何人かいたと思いますが、その中でも私が一番上だと思います。私が米軍の攻撃から逃げ回ったことも、戦後68年になったということで、記憶も薄くなってきて思い出すこともありますし、どう考えても思い出さないこともありますし、年齢的なものからボケがきているものかはわかりませんが、みなさんにこういうことをお伝えしたいということを思っていると適当な言葉が出てこない。文字にしようとすると半分以上が感じが出て来ない、ということで間違いがあるかもしれませんがお願いします。

ちょうど今100歳の方は大正2年生まれでありますが、大東亜戦争当時はその方達が30歳であります。私が生まれた頃は戦争というものは認識はできていましたが、体験するものは少なかったものでございます。お話することはまず一番に私が物心ついた時には物資が不足しておりまして、すでに配給制度になっておりました。今のちょうど日田の街の中で、筑邦銀行の敷地が日田の米の配給所でした。日田の中で一軒しかお米を取り扱う場所はありませんでした。その場所では家族構成を聞かれて、米をもらっていました。衣類も切符制で、たばこお酒をはじめ、すべてのものが配給制か、切符制でありました。タバコも刻みタバコしかなくて、薄いタバコ紙を巻いて木の台の上で作るのであります。お酒は当然切符制でなくて、お祝いがあると、結婚式や出兵がある時に申請をして市役所からもらってくるものでした。あとは闇で作って飲むしかありませんでした。

昭和16年12月8日に、ニイタカヤマノボレという号令が発令されました。大東亜戦争に突入しましたのがその日です。支那事変が既に始まっておりまして、いよいよ物資が少なくなっておりまして、街中を歩いていても中年がおりません。病人か年寄りか婦人しかおりません。女子も挺身隊と名前がついておりますが、20から40歳の方はほとんどおりません。国防壮年会、国防軍人会などがありましたが、何をやっていたかと言いますと、バスケットボールゴールみたいなものがありまして、その真ん中に網もありませんで穴が空いております。その下に桶がおいてありますが、それを何に使いますかと言いいますと、防火練習です。川から50mぐらいの距離で水を貯めるバケツリレーをしておりまして、その穴にいれるわけであります。町内で対好試合をやっておりまして、水が一番たまった町内が優勝であります。竹の棒を藁縄でまいて長さ消防のまといみたいなものを作りまして、火を叩き消す練習を始めて、まだ空襲のなかった時代ではありますが、今考えると幼稚ではありますが、兵隊さんが頑張っているので、町は自分達で守るということで皆必死にやっておりました。我々は15歳で国を守るんだ、という気持ちでやっておりました。

もう一つは食料の増産であります。ほとんどの街という街の畑でといも作り、野菜作りを行っていました。また土地を持たない人は山田原などの原野を切り開いて蕎麦を作りました。蕎麦は肥料がいらなくてすむということで作りました。その後サトイモ、トイモを作りますが、一回目、二回目まではイモも出来ますが、3回目になると地力が落ちてできません。その当時はそういうことで町内でで仕事に出た記憶がありまして、林工に出て行きました。農繁期はほとんど学校に出て行った記憶がありません。クラス別に指定をされておりました。その部落に行くとじいちゃんばあちゃんが待っておりまして、各農家の加勢をしておりました。そういうことで軍事訓練、開拓、農家の加勢などが主な役割でした。婦人会も防空頭巾ともうしますか、訳40cmの四方ですが、頭にかぶれるように布を作って首をかけて、久留米絣というものでしょうか、衝撃を和らげるために綿を入れたものでしょうか、あとは水筒、それが必需品としてそとに出る時は歩かなければならないということで、かっこのいいものではありませんでした。私は小学校に入った時には靴がありませんでした。私は兄貴がおりましたが、お下がりでまともな服を着たことがありません。非常に貧困な時代でありました。

私は事情がありまして、昭和の17年に入っておりましたが2年で中退をしまして就職をしました。呉海軍施設部ということです。家におればすぐ徴用にかかるということで広島の呉にまいりました。その頃は海軍の飯を食った訳でございます。鎮守府は横須賀鎮守府、佐世保鎮守府、呉鎮守府の3つがありました。それ以外に要港というものがありまして青森の大湊、京都の舞鶴、朝鮮の木浦(モッポ)、台湾の基隆(キールン)の4つの要港がありました。そこに施設部というものが一つずつ存在していました。そこに配属になりました。私の兄が昭和14年に合格して霞ヶ浦海軍航空学校というところにおりまして、少年兵になっておりました。卒業しまして昭和18年の暮れに鹿児島の鹿屋から前線に飛びたつということで電報が参りまして、これは誰かが内緒で送ってくれたのでありますが、夜行列車で何時何分に鳥栖を通るということで面会したいということでありました。そのときに父親が所用がありましたので、お袋がぜひ会いたいということで送っていきましたが、話す時間がありませんので鳥栖から熊本まで一緒に汽車に乗って、汽車の中で兄貴を送り出した記憶があります。兄貴は昭和19年に戦死しましたという報告がありました。佐世保の鎮守府で遺骨を渡すということで、父も母も体調を壊しまして、遺骨の受け取りをしました。その後に呉の方に行きました。呉の方で2ヶ月ぐらい訓練を受けまして。今でいう大分の築城、宇佐、大分、高鍋、宮崎などが海軍の航空基地としてありましたのですけれども、その管轄が九州の佐世保から呉の方に管轄が変わったという関係で大分に19年の6月にそこに転勤になりました。大分の方で働いた訳でありましたけれども、大分の方にはすでに今津留の陸上競技場のところに航空隊が空港でありました。航空廠の跡地は今の岩田学園になっております。空港と航空廠その中間のところに私の事務所がありまして、大きな事務所でした。空港と航空廠の修理工場を往復できるよう大きな道路ができておりまして飛行機が離合できるようになっておりました。道路の枝葉が別れて、ゼロ戦の支援をできるような建物、構造物をそのものが格納できるようになっておりまして、私はその地下に潜って整備する仕事が一番多くなっておりました。山沿いに牧、高城という部落がありましが、今の護国神社あたりが高城というところでありましたが、大分には他に春日浦に水上飛行機の工場がありました。大きなトロッコみたいなもので海の中まで滑り込んでいくしくみになっておりまして、格納庫に引っ張り上げる工場がありました。高城のところにはエンジン専用の修理工場にありました。鉄筋コンクリートの5階建ての建物で、4機か5機かいっぺんに試運転できる建物がありました。飛行機エンジンは丸でございますのでボルトで固定してエンジンをかけています。防音をするためにマフラーがわりに天の方に音が吹き出るようになっております。春日浦には魚雷の工場がありましたが、そこでグラマンB29で死人が多く出まして、直撃弾で人間がどのようになるか、至近弾を受けた時にはどのようになるか、耳は3時間か4時間たたないと聞こえなくなるなどの話があります。また私は陸軍の方で金平糖一つで1ヶ月半鍛われた経験もありまして、まが話は序の口ですが時間が来ましたので、機会がありましたらお願いします。

 

 

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