青柳会友卓話

2014-01-15

卓話 青柳寿人会友

 

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前回の話が中途半端でございましたので、ご配慮があって再度この席に上がらせて頂いたと思っております。昭和19年に大分の海軍施設部で働いておりましたが、入った当時はまだ航空省ならびに航空隊の施設改築や新築の仕事をわからんづくでしておりました。同じ年度の11月ごろになりましたら「地上の建物は全部もう何もしなくてもよろしい、すべて今から地下の工事に入るので準備をしろ」ということでありました。戦闘司令部というのは大事な部署でありましたので、地下に潜らせるということでありました。大分には第5航空艦隊の司令部がありましたけれども、大分の滝尾に移転する、それも鉄筋コンクリートにで作るということでした。同時に宇佐の飛行機場に掩体壕(えんたいごう)を作ることや、魚雷を海岸端の地下に半地下式で設置するような作業に一転して切り替えてまいりました。戦争がいよいよ日本国内に入ってくるんだなって感じがわかりました。その当時はまだアメリカの航空機の襲撃はありませんでしたが、幹部の方はわかっておるんだなということが感じました。

その当時はすでに物資が不足しておりまして、主なものは竹筋コンクリート、竹の繊維を利用した竹筋コンクリートの補強で建物を作って行った時代でありました。そういう作業がまだ終わらないだいたい2月末か3月、例の通りB29など、大きな飛行機が飛んでまいります。最初来たときはものすごく上空を走ります。たいてい2機から3機、偵察をしながら飛行しているような状況でありまして、迎撃で高射砲を撃つのでありますが全く届きません。そういう状態がしばらく続いておりましたが、その上空から爆弾を軍事施設の建物に向けて落下させるという状況でありました。ところがものすごく上空から落とすものですから、ほとんどの爆弾は軍事施設ではなく田んぼの中や海の中に落ちました。それがしばらく続いた後に、30機40機という編隊が堂々と低空を走って来まして、2回ぐらいの爆撃で、陸上にあるものはすべて吹っ飛んでしまいました。グラマンなどが飛んできて完全に制空権を取られて米軍が30機40機いつも来る中で、日本軍は5機から6機がやっと逃げて回ってるような状況でした。地上におる人間や飛行機の滑走路に向けて、どんどん爆弾を撃ってくるわけです。日本人は何もできず逃げ回っておるわけです。

そういう中で作業をしておりましたが、傷ついた飛行機を木炭車で動かして、山の中を逃げて回るんです。滑走路の穴を埋めてやるのです。アメリカのグラマンやロッキードなどは重装備をしておりますので、機首がなかなか上がりにくいらしいんですね。ですのでなかなか低空までは追ってこないということで、低空で逃げ回った日本の飛行機を迎えたいのですが、滑走路を穴埋めして、やっと飛行機がおりてくるという状況でした。スコップではかなり時間がかかりますが毎日やっておりました。やはり人間の気持ちというのは変化が起こるのだと思いますが、爆弾とかで死人が出ますと最初は見ただけでもぞっとして、触りたくないと思います。しかも当たり前の死に方ではないので通常は逃げて回るような気持ちになるんですが、そのうち平然とこいつも死んでるな、と私も見られるようになって死体の中で作業を続けていました。

そういった中、大分の事務所の方にお袋から電話がかかっておりまして、陸軍から赤紙が出ているということでした。当時の私はこれまでの話のように海軍の軍属に出ているから赤紙が出ているはずがないと思いましたが、とりあえず日田に帰ってきました。佐賀の184連帯に入隊しろという命令が来ておりました。また大分の方に引き返して行きますと、当然海軍の軍属でありましたので、海軍が私が必要である、という書面をだせば陸軍にいかなくていいということで有りましたが大分では「陸軍に行った方が安全だ、外地に行く船はもう一艘もない。」ということで恩を受けました。戦争に負けるとはいいませんが、終戦が近いだろうということで、私も若くて当時はわけもわからなくて、陸軍の方に行くようにしました。6月の初旬ですが豆田町に今はない橋がありましたが、御幸通りと上町通りの真ん中に一本だけ橋がありまして、その橋の上で歓呼の声に送られまして、壮行会をしていただきました。そこから日田駅まで送られまして、佐賀に出発しておりました。そのあとだいたい4月いっぱいで大分の海軍航空隊は焼け野原になったと聞きます。アメリカ軍は6,7,8月で爆弾を焼夷弾に切り替えまして、日本全土を焼け野原にするという作戦になりました。

陸軍に行ってからの話ですが、今となっては興味深い話で最初に装備をいただきます。軍服は少年航空兵は7つボタンですが、やたら短いのです。洋服を倹約しているんです。ボタンは竹です。水筒は竹のポンポンに紐をつけたものです。飯ごうはありません。3人に1人の飯ごうです。3人で柳ごおりの弁当箱1つですが、1人が食べている間にもう一回炊きます。箸はそこらの枝を切って使って。背嚢(はいのう、かばんのこと)は布です。まん丸の布の袋の両端に紐が着いております。背負い袋です。要は背嚢はありません。編上靴(革靴)として地下たびをいただきます。営内靴(スリッパ)は内務班では履いて回るのですが、ないんです。一番最後は銃をいただきました。銃は短いです。散発銃を短縮したやつです。芯を倹約したやつで簡素化しております。みなさん見たことはないと思いますが、陸軍の騎兵散発銃をさらに短く、簡素化したような銃をいただきましてびっくりしました。シャツが2枚靴下が3枚、そういうふうな装備を全部いただきまして、一晩内務班で寝ました。夜に食事をしましたが最初は赤飯と思いました。食糧事情が悪いのに赤飯とは、新兵が入ってきたら赤飯を炊くんだな、と期待して食べましたら、コウリャンです。米粒がたまに入ってます。噛んでも噛んでも切れませんでした。食糧事情は兵隊の中でも不足していた状況です。内務班1隊で10人から12、3人、それが3内務班がありまして小隊ですが、馬もありません。3分隊と機材小隊5、6が集まり、50人ぐらいで1小隊、3小隊で中隊、中隊が3つそろいますと大隊、ということでありました。内務班の中では無線小隊と有線小隊ががありまして私は有線小隊でした。野戦で情報を伝える軍用線(電話線)の電線を張って行くわけでありますが、全部穴を掘って電柱みたいなものを立てていきます。佐賀の金立の山の中におりました。入った時は梅雨です。雨具がありませんのでいつもびしょびしょです。一番困ったのはインキンタムシです。着替えがありませんので、かならずかかります。兵隊はお風呂に入ったことさえありません。水がありませんので、不潔から原因がくるのでしょうが大変です。水を少なめに飲んでも体力を持つんだということで、ほとんどの人間が便秘です。便所で内務班を出るときには報告しなければいけませんが、便所がいっぱいです。ほとんど人間が便秘で苦労しました。佐賀の連帯から7月の中旬だったと思います。訓練が一ヶ月で終わりましたが軍用線と肥薩線の補修に人吉の方に出ました。それからは楽をしました。軍用線とは電電公社の線を利用して架線を引いておりますので、電柱が折れてないか、河川の木が引っかかってないかなど、ぶらぶら歩きながら補修をしておるような仕事をしておりました。

8月16日、部隊長命令で人吉の渡(わたり)の一勝地という場所に加藤清正岩というのがありましてそこの小学校に兵隊が集められました。新兵でありますからわからんづくで、終戦ということは全然知りませんでした。人身の被害が多すぎるのと、新兵器(原爆)が出て死亡率が高かったので、一時休戦するということでした。常勤兵は残れ、召集兵は解散、ということで、私は召集兵でありましたのでということで喜びいさみました。終戦という言い方はしません。一時休戦ということでした。

しかしそれから先は苦労しました。鹿児島本線に川があるんですが、その鉄道の橋が全部やられているんです。帰ろうにも復員列車が全く来ないんです。その時には人吉にいて食料をもらい行ったんですが、糧秣省も終戦で襲われて倉庫が空っぽになってました。退職金はすぐもらいました。一期が終わりますと2等兵になっておりましたが、私は海軍で大分に長くいたのでまだ陸軍では一期になっておらず退職金が300円でした。階級によって退職金が違いました。民間で米がありましたので買い、大豆をいってもらうとか、そばをもらうとか、その金を日田に帰るまでの道中で全部使ってしまいました。家に帰り着いたのが一月後の9月15日でありました。本当にどんなことをしても戦争をしてはいけない、助かっておるのは上部の人間で、下部の人間はほとんど死んでいる、ということです。どんなことがあっても戦争をしてはいけないと思っております。

 

 

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