11月, 2012年
40年間100%出席
100%出席の会友が例会で表彰されました。
中でも佐藤建身会友は40年間の100%出席です。
会長の時間19 平成24年11月28日(水)
「ミャンマーについて」 2012.11.28
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
11月30日(12月5日朝帰国)から、私と田島副会長、織田R財団委員長で、学校建設予定地の現地視察に行ってまいります。つきましては、ミャンマーについて勉強したことを少しご紹介したいと考えます。
ミャンマー連邦共和国
面積:日本の1.8倍
人口:6250万人(約日本の半分)
首都:ネピドー(2006年よりヤンゴンより遷都)
民族構成:ビルマ族70%、シャン族8.5%、カレン族6.2%モン族2%、インド人2%
宗教:国民の85%が仏教徒、キリスト教徒5%(主に山岳少数民族)、イスラム教徒4%
公用語:ビルマ語
気温:平均最高気温30から40°の間で、最低気温は15°を下ることはない。
降水量:5月から10月が雨季で、11月から4月は乾季
ミャンマーの歴史
ビルマ族の起源は、もともとチベット高原から下りてきた人たちで、1044年にビルマ族のパガン王朝を樹立しました。チベット系ですから、ビルマ語は日本語と似た語順のウラル・アルタイ語系です。
1885年にイギリスに完全に鎮圧されて、1886年(明治29年)に英領インドに併合されて、ビルマ国王夫妻はインドに流刑となりその地で死亡しました。
その後、イギリスは北部山岳少数民族をキリスト教に改宗して軍と警察を担当させ、インド人は金融、華僑は商売、ビルマ人は最下層の農奴にするという分割統治政策をとりました。
この身分関係がビルマ人の山岳民族への憎悪として残り、今の残る民族対立の原因になりました。
日本とミャンマーの関係
1941年の大東亜戦争開戦後、日本軍は援蒋ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し全土を制圧しました。この時、タイで日本軍の支援によって設立されたビルマ独立義勇軍をアウンサン(アウンサン・スーチー氏の父親)が率い、1943年にバー・モウを元首とするビルマ国が建国されました。
その後、1944年のインパール作戦の失敗など日本の敗色が濃くなると、アウンサンの指揮するビルマ国民軍は、日本軍とビルマ国政府に対してクーデターを起こしイギリス側に寝返りました。
しかし、戦後、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領になりましたが、1948年に、やっとイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立しました。
なお、ビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名のみでありました。
ビルマ戦線については自らの従軍体験を基にした「フーコン戦記」(古山高麗雄)や、北ビルマの激戦に従軍された日田の方、元台湾人日本兵からその体験談を聞いたことがありますが、北ビルマから撤退の道は白骨街道と呼ばれるほど悲惨なものだったそうです。
今回の学校建設予定地の視察はもちろんのことですが、ビルマの風土や人情、日本人に対する想いなども肌で感じてきたいと考えます。帰国したら皆様に現地の実情をご報告いたします。
会長の時間18 平成24年11月21日(水)
「子供を可愛がった日本人」 2012.11.21
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
最近は、育児放棄、幼児虐待など、子供をとりまく環境には厳しいものがあります。いつからこんな殺伐とした世の中になったのでしょう。
「江戸の子育て」という本があります。この本を読むと、江戸時代の日本人の子育ての様子が良く分かるので一部を紹介します。当時の子供たちは信じられないほどかわいがられて育てられていました。
明治初期に来日した英国婦人イザベラ・バードは「私はこれほど自分の子供をかわいがる人々を見たことがない。常に子供を抱いたり背負ったりしている。子供の遊んでいる様子をじっと見守り、時に一緒に遊んでやったりもする」と書いています。
ちなみに、戦国時代に来日した宣教師も同じように、子供たちがこんなに可愛がられて、こんなに安心して遊んでいる国は見たことがないと書いています。
江戸時代の大人たちは、毎晩、子供のそばで、おかしくもない子供の話も面白そうな様子で聞き、親からも年相応のことを話して聞かせ、子供を中心に団欒を共に楽しんでいたようです。
スキンシップも現代よりはるかに豊かで、乳をくわえて寝たり、抱かれて寝たりするだけでなく、外出の帰りは、大抵、おんぶか抱っこでした。
肌と肌とを接してやると子供は良く寝るので、子供を裸にして抱いて寝、子供が乳を求めて母親のところに行けば、いつでも乳を飲んだり、舐めたりすることが出来たようです。
睡眠についても、現代では一人で寝させるのを自立と言っていますが、一人で寝かせた様子はありません。婆と寝て目覚めると婆の乳を舐めたり、爺と寝て昔話をしてもらったり、いつも誰かが添い寝していました。
ある日記には「孫を抱いて寝ると『おじいさ、百人一首を読んで』という。天智天皇の『秋の田の』と読んでやると、その通りに読む」とあります。
愛情たっぷりの中で、百人一首や、舌切り雀、花咲かせ爺、古の聖賢の話、大和の名将勇士の振舞いなど、年相応の物語を取りまぜ、寝物語に聞かせながら自然に手習いや書物に導くことが江戸の子育てであったようです。
文化年間、松前藩で捕虜生活を送ったロシア海軍少佐ゴローニンは「日本人は世界で最も教育の進んだ国民である。読み書きの出来ない人間や祖国の法律を知らない人間は一人もいない。一番大切なことは日本人が幼年時代から子弟に忍耐、質素、礼儀を極めてたくみに教え込むことである」と書いています。
今は核家族化して、爺や婆と一緒に住むことも少なくなりました。中には孫を触らせてもらえない爺や婆もいます。
もう、江戸時代に戻ることもできませんが、今の日本人の考え方を変えない限り、いくら制度をさわっても、お金を出しても、少子化も幼児の虐待も改善されることはないだろうと思います。
ゲスト卓話 青木正年西部振興局長「日田には未来がある」
11月21日(水)
ゲスト卓話 青木正年西部振興局長「日田には未来がある」
日田市の未来の可能性について、日田市の地理的要衝、子どもたちの事、有効求人倍率、観光、文化、再生可能エネルギー等々をお話ししていただきながら、わかり易く講演いただきました。ありがとうございました。
会員卓話 織田莊太郎ロータリー財団委員長 「未来の夢計画について」
11月14日(水)
会員卓話 織田莊太郎ロータリー財団委員長 「未来の夢計画について」
会長の時間17 平成24年11月14日(水)
「東北大震災の被災地を見て」2012.11.14
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
先月、東北大震災の被災地、石巻市と仙台市を見てきました。
石巻市では、破壊された建物はきれいに片づけられていましたが、瓦礫のほとんどは、まだ集められて積み上げている状態だそうです。市民は北九州市の名前をあげて瓦礫の受け入れを感謝していました。
平地になっている石巻市の港に面した市街地では、新たに住宅等を建築することは禁止されていて、将来はスポーツ公園にする計画になっているということでした。
しかし、個人の所有地を国が買い取る土地の値段は固定資産評価額で、例えば8万円ですが、高台に建設される予定の土地の値段は18万だそうです。どうして移転できますかと被災者である語り部の人が言っていました。
話を聞きながら、日本で、私有財産がそのような形で処分されることが可能なのだろうかと疑問に思いました。仮に、ある人が津波はもう千年は来ないと判断するから、自分の責任で家を建てると言うことを政府が拒否できるのだろかと疑問に思いました。
石巻の海産物の年間売上高は600億円であったそうです。昔から、海と共存共栄で栄えてきた町です。漁業が再生しないと税収もあがりません。これからも町が再生しようとすれば漁業でしょうから、津波被害を受けた昔もそうであったように、人々は自然に再び海に近づいて来るしかないだろうと推測します。
自然災害を完全に防ぐことはできません。しかし、被害を減らすことは可能だと思います。
今まで何回も津波警報が出されたそうです。しかし、いつも二、三十センチのものだったので、皆が警報に慣れてしまったそうです。
また、今回の津波で、保育園児や小学生が園や学校にいて亡くなった子供はいないそうです。それは、園や学校では、マニュアル通り避難したからです。
警報の出し方や、港周辺での避難場所の確保などで、被害はかなり減らせるのではないかと思います。
仙台では、津波が畑を遡上していた場所に行きましたが、方々で田んぼの塩抜きをしていましたから、もう、畑を活用する方針のようです。私は、高速道路の土盛りで津波が止まったことからも、むしろ、海岸沿いに土を盛るべきではなかろうかと考えていましたら、先日の読売新聞に13メートルの土盛りをする計画があるという記事がありました。これでも巨大津波から完全に守れるかどうかわかりませんが、少なくとも減災はできると思います。
日曜日の「やしきたかじんのそこまで言って委員会」で、東大地震学のゲラー教授が「地震の予知は絶対に出来ません。これが学会の大方の意見です」と言っていましたが、やはり、日本人は良くも悪くも自然と共存して行くしかないのではないかと思います。
職場例会を日田キヤノンマテリアルさんで
2012.11.7 日田キヤノンマテリアル株式会社さんで職場例会を開かせていただきました。
坂下喜一郎社長様をはじめ、工場長様、部長様にも大変お世話になりありがとうございました。
工場の説明、製品の説明の後、見学もさせていただきました。
会長の時間16 平成24年11月7日(水)
「日田キヤノンマテリアル株式会社さんでの職場例会」 2012.11.7
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
本日は、日田キヤノンマテリアル株式会社さんの工場見学をかねての職場例会ですが、快く受け入れて下さいましたことを深く感謝いたします。
今年の6月に行われた開所式で御手洗冨士夫キヤノン会長は、日田キヤノンマテリアルで造る部品について「キヤノンの“宝”といえる技術やノウハウがぎっしり詰まっている。こうした重要な部品の生産は海外に出すつもりはない」と力説され、キヤノンのものづくり方針として「労働集約的な組み立ては一部を海外に出すが、付加価値の高いものは日本に残し、雇用にも貢献していく」と述べられました。
このような戦略性の高い工場を日田に建設、かつ、日田市内からの大勢の若い人たちを採用して下さいましたことに日田市民として感謝するとともに、将来的な事業の拡張を大いに期待いたします。
本日は、グローバル化の中で日本の製造業が如何に対応して行くかなどのお考えも併せてお聞かせ願えれば幸いです。本日はよろしくお願いします。