1月, 2014年

会長の時間27 平成26年1月29日(水)

2014-01-29

「日台ロータリー親善会議に参加して」2014.01.29

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

 

一月二十五日(日)に台北の圓山大飯店で開催された第四回目の「台日国際扶輪親善会議」と「日台ロータリー親善会議」の合同例会に、田嶋副会長・小ヶ内幹事と一ノ宮PPの四名で参加して来ました。

 

参加者は主催者が当初予想した600名を大きく上回る770名になったそうで、円卓の間をやっと人が通れるくらいの盛会ぶりでした。日本からの参加希望者が多かったために、台湾側の人数は制限したといっていました。

 

この会議に参加するのは初めてですが、盛会ぶりから改めて日台の絆の強さを確認することが出来ました。

 

この会は、当初、日韓親善会議のお手伝いをしていた前川正一さんたちが、日台の方がむしろ大切なのではないか考え、「台日国際扶輪親善会議」初代会長の林士珍さんや次期RI会長になるゲイリー黄さんたち台湾側と相談して、2008年に発足したものだそうです。

 

第一回は東京で、第二回は台中の日月潭、第三回は京都で開催されました。

 

2009年の台湾南部災害の際は、「日台ロータリー親善会議」から「台日国際扶輪親善会議」に義捐金を贈ったそうですが、2011年の東日本大震災の際には「台日国際扶輪親善会議」を通じて1億4千万円余、全台湾ロータリアンの合計では6億1千万円余の義捐金が日本のロータリークラブに贈られました。

 

この義捐金の一部は現在「ロータリー希望の風奨学金」にも活用されています。

この奨学金は、大震災で両親もしくは片親を失った1750名の遺児のうち、大学や専門学校で学ぶことを断念した人たちに、卒業するまでの生活費として毎月5万円を支給し返済を求めないものす。

現在、遺児奨学生は140名を超えていますが、震災当時生まれた遺児が大学を卒業する二〇年先まで継続出来るそうです。

 

記念講演では2014-15年度国際ロータリー会長の黄其光(ゲイリー・ホアン)さんが、サンディエゴでのスピーチをDVDで紹介しながら講演しました。

黄さんはスピーチの上手な明るい人で、次年度RIの標語は「Light Up Rotary」です。これは孔子の「暗さを呪うより、ろうそくに火を灯した方がいい」から採ったそうです。「ロータリアンは孔子の教えを実践し、一つ一つのろうそくに火を灯します。120万人のロータリアンが一つずつ火を灯せば世の中は明るくなります」と話していました。

 

なお、「台日国際扶輪親善会議」初代会長の林士珍さんがおっしゃっていましたが、台湾のロータリークラブは約80年前に米山梅吉翁が台北ロータリークラブを創設したのが始まりだそうです。全台湾人が尊敬する烏山頭ダムで有名な八田與一さんも昭和7年に台北クラブに入会されたロータリアンだそうです。

 

この日台親善の強き絆である烏山頭ダムに、林士珍さんは4年前から「桜」植樹計画を呼び掛けられ、現在では日本の苗と台湾の苗を掛け合わせた3~400本の桜が元気に育っているそうです。

日田ロータリークラブが嘉義玉山扶輪社を通じて寄付したのもこの植樹計画の一環です。

 

なお、次回の「日台ロータリー親善会議」は八田與一翁の故郷である金沢で開催されるそうです。

以上、報告でした。

介護について-日田市の現況と介護支援専門員-赤坂由美子さん

2014-01-29

日田市介護支援専門員協議会の代表幹事である、赤坂由美子さんの卓話です。

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日田市介護支援専門員協議会 代表幹事 赤坂由美子さん

 

こんにちは。日田市介護支援専門協議会の代表幹事をしております赤坂と申します。普段、私は在宅のケアマネージャーとして利用者さんやご家族の支援を行っております。今日は宮崎先生から日田市の現状や介護についてのお話をしてくださいということで、いとも簡単に引き受けてしまったのですが、いまここに着いて心臓がバクバクしております。木下先生もおりますし安定剤が欲しいところです。今日は第一線でご活躍の皆様の前で大した話はできないかと思いますが、よろしくお願いします。

市役所から日田市の現況についての資料を頂いてきましたのでご参照ください。日田市も高齢化率が上がっておりまして30%を超えております。平成42年には2.5人に1人は高齢者といわれています。皆様の手元にはありませんので口頭で説明しますが、平成23年日田市には全体で26673世帯ございます。そのうち65歳以上の高齢者のいる世帯は14351世帯で、全世帯数の優に半分を超えています。そのうち65歳以上の方の独居世帯は3620世帯です。独居世帯は介護を担う家族がいないということで問題になっています。

介護保険の浸透と共に最近では介護給付も大きくなっております。ご存知のように介護保険は50%が公費でまかなわれています。そのうち25%は国、12.5%ずつが県と市町村が負担しています。残りの半分については40歳からの第2号被保険者の介護保険料が29%、残りの21%が65歳以上の第1号被保険者の介護保険料でまかなわれています。日田市のの介護給付の状況、年度推移でありますが、1日に換算すると1600万円が介護保険に使われているという状況です。高齢化と共に私たちの負担も大きくなっている状況であります。

介護保険で高齢者という言葉をよく使いますが、皆様方、高齢者はいくつからと思いますか?警察署では70歳以上が高齢者とされておりまして、運転免許の検査などがあると思います。介護保険制度では65歳以上75歳未満を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者としております。国連では60歳以上を高齢者80歳以上を後期高齢者としています。高齢者の年齢の定義はこのようにさまざまであります。高齢者を広辞苑で引きますと、年をとった人と実に簡単に書いています。皆様方も65歳の誕生日の月になりますと介護保険の被保険者証が送られてきて、それからは誰でも申請ができる第1号被保険者ということになっています。40歳から65歳未満の第2号被保険者はすでに介護保険料を納めていただいている方ですが、癌でありますとかリュウマチ、脳疾患などの定められている16の疾病に該当しないと介護申請ができないことになっております。

ここで少し私たちケアマネージャーの役割についてお話を聞いてください。介護保険の発足と共に私どもは介護支援専門協議会を立ち上げております。会員は現在140数名、医師や看護師、行政、保健所の方々、施設のケアマネはもちろん、介護福祉士など、たくさんの職種の方々から成り立っています。私たちは単に介護保険のサービスを提供するにとどまらず、利用者さんやご家族の相談援助を仕事と捉えております。毎月事例検討会や気づきの勉強会を行っております。昨年に引き続き3月には公開研修会を予定しております。昨年からはコーチング研修を取り組んでおり、日田市にはがんばっているケアマネージャーもたくさんおりますのでご承知くださいませ。

さて私たちケアマネージャーはデイサービス行きましょう、デイケアに行きましょう、と安易にいうのではなく、利用者さんが少しでも長く生きられるよう、自立に向かっていけるよう計画を立てます。自立という言葉をよく使いますが自立という言葉はとても難しいと思っております。自立にはたくさんの意味があります。身体的な自立、精神的な自立、経済的な自立があります。多くの方が最後まで自分で力で食事をしたい、下の世話で他人にお世話になりたくないと言います。これは身体的な自立です。これは自立の出発点であります。多くの人に人生の中で一番したいことは何ですか?と聞くと、人は自分のしたい事がわからない、人との違いはなんだろう、と自分に問いかけるそうです。これが精神的自立です。自立を自分自身と重ねて考えると、自分のことでも難しいのに、ケアマネージャーは他人の自立を目指して支援を始めますから、利用者さん、家族を通じていつも勉強をさせていただいています。以前宮崎先生とパトリアで在宅医療の中で、看取りについての勉強会を行いました。現在日田市在宅医療連携会議を立ち上げています。介護を担う家族がいない現状でも多職種の連携をとって在宅医療は充実しています。自宅で晩年を過ごせるようになるといいなと思っています。在宅医療をご利用いただいてる皆様はいつも「ぼろのおうちでも自宅で亡くなるのが一番いい」といわれます。日田市在宅医療支援センターを中心として、自宅でも病院と同じようなサービスを受けられるようにしたいと思います。医療設備が整った現在では病院で亡くなる方が多いですが、最後は住み慣れた自宅で過ごしたい、と聞くことが多いです。どちらがいいというわけではありませんが、選択肢の一つとして周知されるべきだと思います。また自分が介護や看取りが必要になったとき、ご家族に対してその意思をしっかり伝えている方が何人いるでしょうか。療養型の医療施設に入院されておられた姑の方ですが、お嫁さんから姑さんの言いつけどおり自宅で見たいんだけど、という相談を受けました。お嫁さんはおむつ交換もしたことがありませんでしたが、お母さんとのお約束を守られて、要介護5でしたが床ずれもなく、病院にいたときと変わらず、単語なんですけれども言葉も返せるほどに回復をしております。自分の気持ちを家族に伝えておくことは大切だと考えています。認知症になってからでは自分の考えを伝えることはできないと思います。元気なうちに話すことが大切だと思います。介護保険サービスを受けることを拒否する方もおりますが、私たちケアマネも安易にサービスを使うのではなく、会員一同、高いレベルのサービスを目指しています。

堅い話が多くなりましたので、日ごろ私が考えていることをお話させていただきます。この仕事を始めてから、これが国道なのかしら、と思うぐらいぜんぜん手入れがなっていない道を通ることがあります。私はこれまで野生の猪を見たことがありませんでした。しかし、野生の猪も最近は荒れた竹林を歩くよりもきれいな道路を歩きたいんだろうと思いましたが、昔はお年寄りが里山の手入れをしていました。今は高齢者はデイサービスやデイケアに行くようになっています。人間関係や、地域のつながりが薄れていることを感じています。姑の力は昔は強かったんですけれども、今は逆転してお嫁さんがショートステイに行きなさいといったらそのまま行かざるを得ない。自分の意思表示ができていないんですね。そういった方の心を追って、何がしたいのか、聞きだす必要がございます。今一度、家族の関係が見直されたらと思います。今日はたいした話ができませんでしたが、最後までご清聴ありがとうございました。

中津RC 創立60周年 中津RCより来訪

2014-01-22

中津RC 創立60周年実行委員会

安藤 元博さん 中野 登さん 小倉 清司さん

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3月22日開催の60周年記念についてPRに参りました。私(安藤)はずっとロータリークラブにおりまして4番目の高齢者になりますので、実行委員長を受けさせていただきました。日田クラブはご承知のように中津の子クラブとして50周年を迎えられたということでおめでとうございます。中津ロータリークラブの方でもまた50周年式典に登録させていただきます。

中津ロータリーでは60周年ということでいろいろな事業を計画しています。中津ロータリーを作った先人達の中に西鉄の社長の村上巧児先生がおりまして、中津と福岡と小倉に子供たちの心が豊かになる何かを作ろうということで、中津に村上記念館、福岡に香椎花園、小倉に到津遊園の3つの施設を作りました。チャリティーの音楽祭をしまして、その運営費を出そうということが一点。また中津クラブは会員が50名を切っておりました。還暦を機に会員を60名にしようということに取り組んでまいりました。やっと今57名なり、どうにか60名に増やそうというじゃないかということで取り組んでおります。

そういう風なロータリークラブの活動ができるというのも、中津からRI向笠廣次会長が、日本人2人目のRI会長として出たクラブであるということです。奇しくも昨年また日本から八潮ロータリークラブの田中作次さんという方が日本人として3番目のRI会長として出ました。それでパストRI会長を記念講演に呼ぼうということになりました。彼はなかなか忙しくて会長が済んでも世界中を飛び回っているというような状況でありまして、埼玉県の八潮市という秋葉原の近く、私たちはそこまで行って直接パスト会長にお会いして、正直なところ3月22日の確認が、昨日初めて取れました。30数年ぶりにRI会長が出たということですが、30数年前向笠会長が出たときの記念公園は、基金を出していただいた30数年そのままになっておりましたので、今回資金を頂いて素晴らしい公園に変わっております。現在ロータリーの心を洗い直しております。3月22日には記念式典もろもろありますので、ぜひ隣の中津までお見えいただければ幸いです。我々としては今流行のおもてなしというか、それ以上の、登録料以上の接待をするつもりですので、どうかよろしくお願いします。貴重な時間をありがとうございました。

会長の時間26 平成26年1月22日(水)

2014-01-22

「毅然とした日本人」2014.01.22

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

 

昨年の十一月にドキュメンタリー作家の門田隆将さんの講演を聞きました。

 

どの話も素晴らしいお話でしたが、東電福島原発の所長であった吉田昌郎さんの原子炉への海水注入のエピソードをご紹介します。吉田さんに直接インタビュー出来たのは門田さんだけだそうです。

 

あのとき、首相官邸は海水注入による再臨界を懸念して、東電に海水注入をストップするように命じました。

その意を受けた東電の役員から次のような電話が吉田所長にあったそうです。

 

「オイ、吉田。俺だ。海水注入どうした」「やってますよ」「すぐ止めろ」「どうしてですか」「うるせー。官邸がぐずぐず言ってんだよ」

「止められませんよ」と吉田さんが言った瞬間、電話が途切れたそうです。

その短い間に、吉田さんは海水注入の担当班長の机に歩いて、テレビ映像に映らないように「本社からストップの命令が来るだろうが、お前に向かって『ストップ』というが聞くな。どんなことがあっても止めるな」と伝えたそうです。

班長は「ハイ、分かりました」ということで、電話が再開したとき「ストップしろ」「はい」と偽装しながらも、本社の命令に背いて海水を注入し続け、福島原発を鎮静化させました。

 

このことは二ヶ月後に、IAEAの調査が入ることが決まって、初めて吉田さんが東電本社に報告しました。本社は初めて知って仰天したそうです。

 

ストップの命令を出した上司は、東電で役員までなっているのだから平時はエリートと呼ばれる優秀なサラリーマンなのでしょうが、こういう人をエリートとは言いません。真のエリートにはいわゆる「ノーブレス・オブリージュ」高貴なる者の義務があります。

 

もし「海水注入ストップという本社の命令に従う」よりも「日本を救う、国民の命を救う」ことの方が大切だという本義を分かった豪胆な吉田所長と原子炉に突入を繰り返した所員がいなければ、福島原発はチェルノブイリの十倍もの惨事となり、東日本には人が住めなくなったかもしれません。

 

門田さんは、光市母子殺害事件を描いた『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の三三〇〇日』『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)で第十九回山本七平賞受賞。

『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』『太平洋戦争 最後の証言』などのドキュメンタリーを本にされています。

 

門田さんは、毅然とした日本人は昔も今も沢山いる。

本義を知る日本人、恥を知る日本人のことを後世に書き残したいと話していました。

江田弘司会友 新入会員卓話

2014-01-22

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会長の時間25 平成26年1月15日(水)

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「夢は実現する」2014.01.15

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

 

本田圭佑選手が、ついにイタリア・セリエAのACミランの試合でプレーしましたが、初出場とは思えないほどの堂々としたプレーでゲームをコントロールしていました。

 

彼は小学生の時に書いた作文「将来の夢」を現実のものとしました。昔から、ナポレオン・ヒルや中村天風などが成功哲学を書いて、心にイメージしましたことや信念は必ず実現すると教えてきましたが、本田選手はその証明のようなものです。

 

本田選手が小学校のときに書いた作文を紹介します。

「ぼくは大人になったら、世界一のサッカー選手になりたいと言うよりなる。

世界一になるには、世界一練習しないとダメだ。だから、今ぼくはガンバっている。今はヘタだけれどガンバって必ず世界一になる。そして世界一になったら大金持ちになって親孝行する。

Wカップで有名になって、ぼくは外国から呼ばれてヨーロッパのセリエAに入団します。そして、レギュラーになって一〇番で活躍します。一年間の給料は、四〇億円はほしいです。

プーマとけいやくしてスパイクやジャンバーを作り、世界中の人がこの僕が作ったスパイクやジャンバーを買って行ってくれることを夢みている。

一方、世界中のみんなが注目し世界中で一番さわぐ四年に一度のWカップに出場します。セリエAで活躍しているぼくは、日本に帰りミーティングをし、一〇番をもらってチームの看板です。

ブラジルと決勝戦をし、二対一でブラジルを破りたいです。この得点も兄と力を合わせ、世界の競ごうをうまくかわし、いいパスをだし合って得点を入れることがぼくの夢です」

 

本田選手は髪を金色に染めて、一見、今風に見えるけれども、彼には彼の哲学があります。本田選手はこうも書いています。

「海外に出たら、日本は本当にいい国だと改めて思う。同時に思うのはこんな裕福な今日の日本があるのは、先代の人たちが頑張って汗水たらして残していってくれたおかげ。感謝して今からもう一度、頑張らないといけないんじゃないか。

そろそろオレたちの世代が、本物が評価される時代を作り出すべきだと思う。本物の定義・哲学を若い人たちがそれぞれ持っていないといけないと思う」

 

サッカー日本代表監督のザッケローニ監督は日本人と日本選手についてこう言っています。
「日本人の文化やふるまいについては非常に素晴らしいと思っている。選手たちも同様で、彼らはチームワークのなんたるかを知っており、これまで多くのチームを率いてきたが、これほど短期間にいいグループを形成できたチームを、過去にみたことがない」

「日本は世界的に見ても急レベルで成長している。日本選手の学び、表現する姿勢は特筆すべきもので、それこそが成長させる一番の要因となっている。日本の国民の皆さんには、素晴らしい向上心を持つ代表選手がいることを誇りに思ってほしい」

本田のような日本人選手と日本チームが世界のトップレベルで活躍すること期待します。

青柳会友卓話

2014-01-15

卓話 青柳寿人会友

 

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前回の話が中途半端でございましたので、ご配慮があって再度この席に上がらせて頂いたと思っております。昭和19年に大分の海軍施設部で働いておりましたが、入った当時はまだ航空省ならびに航空隊の施設改築や新築の仕事をわからんづくでしておりました。同じ年度の11月ごろになりましたら「地上の建物は全部もう何もしなくてもよろしい、すべて今から地下の工事に入るので準備をしろ」ということでありました。戦闘司令部というのは大事な部署でありましたので、地下に潜らせるということでありました。大分には第5航空艦隊の司令部がありましたけれども、大分の滝尾に移転する、それも鉄筋コンクリートにで作るということでした。同時に宇佐の飛行機場に掩体壕(えんたいごう)を作ることや、魚雷を海岸端の地下に半地下式で設置するような作業に一転して切り替えてまいりました。戦争がいよいよ日本国内に入ってくるんだなって感じがわかりました。その当時はまだアメリカの航空機の襲撃はありませんでしたが、幹部の方はわかっておるんだなということが感じました。

その当時はすでに物資が不足しておりまして、主なものは竹筋コンクリート、竹の繊維を利用した竹筋コンクリートの補強で建物を作って行った時代でありました。そういう作業がまだ終わらないだいたい2月末か3月、例の通りB29など、大きな飛行機が飛んでまいります。最初来たときはものすごく上空を走ります。たいてい2機から3機、偵察をしながら飛行しているような状況でありまして、迎撃で高射砲を撃つのでありますが全く届きません。そういう状態がしばらく続いておりましたが、その上空から爆弾を軍事施設の建物に向けて落下させるという状況でありました。ところがものすごく上空から落とすものですから、ほとんどの爆弾は軍事施設ではなく田んぼの中や海の中に落ちました。それがしばらく続いた後に、30機40機という編隊が堂々と低空を走って来まして、2回ぐらいの爆撃で、陸上にあるものはすべて吹っ飛んでしまいました。グラマンなどが飛んできて完全に制空権を取られて米軍が30機40機いつも来る中で、日本軍は5機から6機がやっと逃げて回ってるような状況でした。地上におる人間や飛行機の滑走路に向けて、どんどん爆弾を撃ってくるわけです。日本人は何もできず逃げ回っておるわけです。

そういう中で作業をしておりましたが、傷ついた飛行機を木炭車で動かして、山の中を逃げて回るんです。滑走路の穴を埋めてやるのです。アメリカのグラマンやロッキードなどは重装備をしておりますので、機首がなかなか上がりにくいらしいんですね。ですのでなかなか低空までは追ってこないということで、低空で逃げ回った日本の飛行機を迎えたいのですが、滑走路を穴埋めして、やっと飛行機がおりてくるという状況でした。スコップではかなり時間がかかりますが毎日やっておりました。やはり人間の気持ちというのは変化が起こるのだと思いますが、爆弾とかで死人が出ますと最初は見ただけでもぞっとして、触りたくないと思います。しかも当たり前の死に方ではないので通常は逃げて回るような気持ちになるんですが、そのうち平然とこいつも死んでるな、と私も見られるようになって死体の中で作業を続けていました。

そういった中、大分の事務所の方にお袋から電話がかかっておりまして、陸軍から赤紙が出ているということでした。当時の私はこれまでの話のように海軍の軍属に出ているから赤紙が出ているはずがないと思いましたが、とりあえず日田に帰ってきました。佐賀の184連帯に入隊しろという命令が来ておりました。また大分の方に引き返して行きますと、当然海軍の軍属でありましたので、海軍が私が必要である、という書面をだせば陸軍にいかなくていいということで有りましたが大分では「陸軍に行った方が安全だ、外地に行く船はもう一艘もない。」ということで恩を受けました。戦争に負けるとはいいませんが、終戦が近いだろうということで、私も若くて当時はわけもわからなくて、陸軍の方に行くようにしました。6月の初旬ですが豆田町に今はない橋がありましたが、御幸通りと上町通りの真ん中に一本だけ橋がありまして、その橋の上で歓呼の声に送られまして、壮行会をしていただきました。そこから日田駅まで送られまして、佐賀に出発しておりました。そのあとだいたい4月いっぱいで大分の海軍航空隊は焼け野原になったと聞きます。アメリカ軍は6,7,8月で爆弾を焼夷弾に切り替えまして、日本全土を焼け野原にするという作戦になりました。

陸軍に行ってからの話ですが、今となっては興味深い話で最初に装備をいただきます。軍服は少年航空兵は7つボタンですが、やたら短いのです。洋服を倹約しているんです。ボタンは竹です。水筒は竹のポンポンに紐をつけたものです。飯ごうはありません。3人に1人の飯ごうです。3人で柳ごおりの弁当箱1つですが、1人が食べている間にもう一回炊きます。箸はそこらの枝を切って使って。背嚢(はいのう、かばんのこと)は布です。まん丸の布の袋の両端に紐が着いております。背負い袋です。要は背嚢はありません。編上靴(革靴)として地下たびをいただきます。営内靴(スリッパ)は内務班では履いて回るのですが、ないんです。一番最後は銃をいただきました。銃は短いです。散発銃を短縮したやつです。芯を倹約したやつで簡素化しております。みなさん見たことはないと思いますが、陸軍の騎兵散発銃をさらに短く、簡素化したような銃をいただきましてびっくりしました。シャツが2枚靴下が3枚、そういうふうな装備を全部いただきまして、一晩内務班で寝ました。夜に食事をしましたが最初は赤飯と思いました。食糧事情が悪いのに赤飯とは、新兵が入ってきたら赤飯を炊くんだな、と期待して食べましたら、コウリャンです。米粒がたまに入ってます。噛んでも噛んでも切れませんでした。食糧事情は兵隊の中でも不足していた状況です。内務班1隊で10人から12、3人、それが3内務班がありまして小隊ですが、馬もありません。3分隊と機材小隊5、6が集まり、50人ぐらいで1小隊、3小隊で中隊、中隊が3つそろいますと大隊、ということでありました。内務班の中では無線小隊と有線小隊ががありまして私は有線小隊でした。野戦で情報を伝える軍用線(電話線)の電線を張って行くわけでありますが、全部穴を掘って電柱みたいなものを立てていきます。佐賀の金立の山の中におりました。入った時は梅雨です。雨具がありませんのでいつもびしょびしょです。一番困ったのはインキンタムシです。着替えがありませんので、かならずかかります。兵隊はお風呂に入ったことさえありません。水がありませんので、不潔から原因がくるのでしょうが大変です。水を少なめに飲んでも体力を持つんだということで、ほとんどの人間が便秘です。便所で内務班を出るときには報告しなければいけませんが、便所がいっぱいです。ほとんど人間が便秘で苦労しました。佐賀の連帯から7月の中旬だったと思います。訓練が一ヶ月で終わりましたが軍用線と肥薩線の補修に人吉の方に出ました。それからは楽をしました。軍用線とは電電公社の線を利用して架線を引いておりますので、電柱が折れてないか、河川の木が引っかかってないかなど、ぶらぶら歩きながら補修をしておるような仕事をしておりました。

8月16日、部隊長命令で人吉の渡(わたり)の一勝地という場所に加藤清正岩というのがありましてそこの小学校に兵隊が集められました。新兵でありますからわからんづくで、終戦ということは全然知りませんでした。人身の被害が多すぎるのと、新兵器(原爆)が出て死亡率が高かったので、一時休戦するということでした。常勤兵は残れ、召集兵は解散、ということで、私は召集兵でありましたのでということで喜びいさみました。終戦という言い方はしません。一時休戦ということでした。

しかしそれから先は苦労しました。鹿児島本線に川があるんですが、その鉄道の橋が全部やられているんです。帰ろうにも復員列車が全く来ないんです。その時には人吉にいて食料をもらい行ったんですが、糧秣省も終戦で襲われて倉庫が空っぽになってました。退職金はすぐもらいました。一期が終わりますと2等兵になっておりましたが、私は海軍で大分に長くいたのでまだ陸軍では一期になっておらず退職金が300円でした。階級によって退職金が違いました。民間で米がありましたので買い、大豆をいってもらうとか、そばをもらうとか、その金を日田に帰るまでの道中で全部使ってしまいました。家に帰り着いたのが一月後の9月15日でありました。本当にどんなことをしても戦争をしてはいけない、助かっておるのは上部の人間で、下部の人間はほとんど死んでいる、ということです。どんなことがあっても戦争をしてはいけないと思っております。

 

 

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2014年 2月の例会予定

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・2月 5日(水)午後0時30分  日田市の歴史の宿亀山亭

外部卓話  原田啓介日田市長 「市政について」

・2月12日(水)午後6時30分  日田市の歴史の宿亀山亭

雪見例会(夜間例会)

・2月19日(水)午後0時30分  日田市の歴史の宿亀山亭

職業奉仕賞授与

・2月26日(水)午後0時30分  日田市の歴史の宿亀山亭

新入会員卓話 宮崎隆生会友、吉野克己会友

新入会 吉野克己さん

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株式会社日田クレーンの代表取締役 吉野克己さんが入会しました。

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午年 年男の抱負

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宮崎会友

お正月に医院で3つの話をしました。改善、挑戦、安全です。2番の挑戦については6月に、この歳にして在宅医療の専門医の試験を受験することにしました。去年の暮れ3ヶ月をかけて資料をそろえて申請をしました。受かるかどうかわかりませんが、皆さんに言っておくと気合が違うかな、ということでみなさんにお話をさせていただきました。

 

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松本会友

今年48になる年です。午年ということで変化の年と言われておりますが、新しい施設を平成24年の6月に開設したばかりでこの1年半気持ち的に余裕がないことが多かったですので、何事にも心に余裕を持ちながらやっていきたいと考えています。あと12年経つと宮崎先生の歳で人生って早いんだな、と思いますが次の年男まで楽しくすごして生きたいと思っています。ロータリーの50周年では祝宴で司会を承っております。原会友とコンビを組んでおりますので、いかに原会友を華やかに引き立てるのが役割と思っておりますので、ご意見を承りたいと思います。

 

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永田会友

抱負という字はなぜ負けるという字が書いているというを考えたら、会社の挨拶でも言わさせていただきましたが、まず自分の負けているところ(自負心)、弱点を認めていくところが大切だと思います。

 

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澤熊会友

宮崎先生をもう一回りすると私の歳になります。ネパールに行き始めて22年になります。最初に言ったのがまだ40代の最後の歳でした。この22年のうちに14回行って3分の2はいなかったということです。我が家の正月は一家離散の状況です。我が家が一堂に集まるのは法事のときぐらいで、年寄り3人を10年の間に送りました。今後いつ集まるだろうかと思いまして、単純ではありますが、正月以外の時にみんなで集まりたいと思います。

 

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佐藤親吉会友

10年前の3月に日田ロータリー40周年の時には会長で、今の橋本会友に幹事をしていただきまして、皆さんに支えられまして何とかやっていけました。ロータリーは昭和39年の5月に発足しましたが、私は昭和39年の3月に消防団に入りまして今年満50年になります。今日派手なネクタイを締めておりますが、これが消防団の正装であります。どうぞ日田から火災や事故のないように今年一年願っております。

会長の時間24 平成26年1月8日(水)

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「甲午(きのえうま)」2014.01.08

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

 

明けましておめでとうございます。正月三が日は実に穏やかで静かな天気に恵まれましたが、皆様方も良き年をお迎えになられたことと存じます。

 

さて、おせち料理では最近、偽装で話題になったエビをめでたいこととして使いますが、陽明学者の安岡正篤先生は、俗説では夫婦が共に老いて腰が曲がる迄めでたく暮らすという意味からエビを使うというが、腰が曲がったのではあまりめでたいとは言えない、という疑問をかねがね持っていたそうです。

 

あるとき安岡先生は生物学者の説を聞いて初めてめでたい理由がわかったそうです。

つまり、エビは殻を脱ぎますが、万物みな固まる秋になっても、エビだけは固まらないで殻を脱ぐ。

エビが殻を脱がなくなった時は死ぬのだそうです。だから生ける限り殻を脱いで常に新鮮である。

なるほどそれならめでたい。エビのごとく常に生命的であり、新鮮であり、進化してやまぬのであれば、こんなにめでたいことはないと先生は書いています。

私共も六十になれば、それなりに、七十、八十、九十になってもそれなりに殻を脱いで常に新鮮で生命的でありたいものです。

 

さて、今年の干支(えと)は甲午(きのえうま、こうご)です。同じく安岡先生の本からですが、

甲は、春になって木の芽が冬の間かぶっていた殻を破って出てきた姿だそうです。だから物事のはじめを意味し、「はじまる」とも読み、またはじめという意味から十分に慎重にやらねばならないので、「つつしむ」とも読むそうです。しかし、人間はともすれば旧来の陋習になれて、改革・革新をやらず、因循姑息になるので、甲の字には「狎れる」という意味もあるそうです。

 

チャイナは古来、天災や人災が絶えないので、様々な現象や歴史や経験を帰納的に思索して、易経などのシナ哲学が生まれてきたのでしょうが、一つの事象を多面的に捉える考え方は大変面白いと思います。

 

ある意味チャイナではどう処世していくかに、個人や一族の命運が掛かっていますから真剣にならざるをえません。かつて、勤務していた会社で台湾から来た研修生に「橋本さん、日本ではお世辞を言うことを『ごまをする』と言いますね。ゴマをすってもいい香りがするだけです。中国語では『拍馬屁』といいます。屁にはお尻の意味があります。ですから、下手に馬の尻を叩けば馬に蹴られて死んでしまいます」といわれたことがありました。中華圏ではゴマをするのも命がけです。

 

故宮博物館では「皇帝に宝物を献上するには審査する人がいて、お眼鏡にかなえば莫大な褒美をもらえるが、かなわなければ首を斬られる」と聞いたこともあります。

 

さて、甲午の年といえば、百二十百二十0年前(明治二十七年)の朝鮮半島では、役人による不当な課税など苛政にあえぐ民衆が怒り、そのころ朝鮮で広まっていた新興宗教「東学」の指導者を中心に「東学党の乱」が起きました。これを機に出兵した日清両国が衝突して日清戦争が勃発したのもこの年です。

百二十年後の北朝鮮も苛政といっても過言ではないと思います。朝鮮半島が有事となれば、極東情勢は一気に流動化します。日本も好むと好まざるとにかかわらず局外にはいられません。

 

六十年前の一九五四年(昭和二十九年)は自衛隊が発足した年でもあります。最近、国家安全保障会議(NSC)や特定機密保護法、防衛大綱の変更など政府の動きが急ですが、我々が思う以上に我国を取り巻く安全保障の環境は悪化しているのかもしれません。

 

今年の甲午は未だ明らかではない大きな変化の始まりかもしれません。あらゆる事態を想定して慎重に準備すべき年なのかもしれないと思います。

 

 

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