4月, 2016年
会長の時間36 平成28年4月27日(水)
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
今回の、4月14日、16日の大地震では、熊本、大分の両県は甚大なる被害に見舞われました。特に熊本県の益城町、西原村、南阿蘇村では言葉では言い尽くせないほどの凄惨な状況です。被害にあわれた方々には心からお見舞いを申し上げます。
一方ロータリーでも2720地区は大分、熊本が地盤であり、その全域に被害が広がっています、被災されたロータリアンも多数おられることと思います。
2720地区では、ガバナーエレクトの事務所に熊本地震総合支援室が設置されました。そこから
- クラブ会員の被害状況の報告(地震の影響で3日以上業務が出来なかった会員を報告)
- 被災者支援及び義援金のお願い
の通達がありました。(ところで皆さんの被害状況は如何でしょうか?)
早速、埼玉県の戸田イブニングRCから、10周年記念事業を取りやめ、その資金をすべて義援金として送りたいがどうすればよいかと事務局に問い合わせが有りました。そこで新設された熊本地震総合支援室の口座を連絡致しました。
我々日田クラブもこの状況にどう対処すればよいのか、どういう援助が出来るのか、本日の理事会で検討して参りたいと考えています、皆様のご協力を宜しくお願い致します。
また、この地震の影響で、日田中央クラブは40周年の記念行事を半年間延期することを決めました、この対応に苦慮している模様です。我々日田クラブでも20日の例会は休会と致しました。
宇土RCの30周年事業も延期との連絡がありました。玖珠クラブも延期のようです。
被災された住宅はもちろんですが、熊本城や阿蘇神社の姿を見ると、地震の恐ろしさが、真面に伝わって来ます。今回改めて、布田川断層や日奈久断層など認識しました。別府―万年山断層帯にある何本も入り組んだ断層を見ると、益々心配になってきます。有感地震も900回を超え最高になりました。一刻も早く終束してくれることを願います。
私のメモには、14日、9:26分 ポケットの携帯が、警報音と共に振動した、一瞬何が起こったのか分らなかった。3回目の警報音と共に回りがカタカタと音を立て始め、次第に激しい揺れと変わり、家ごとグラグラと揺すられていった。不安になって大黒柱のそばに移動したが、ストーブの火は消えなかった。NHKに変えると日田は震度4だった。
16日の本震はもう一回り大きな揺れでした、中にはこの地震に気付かなかった強者もおられるようです。天瀬地区は簡易水道が濁り、我家の水道水は茶色になり1週間ほど給水車の世話になりました。
天瀬から日田に来る間でも、神ノ釣のトンネル入り口の崩落等、運転中気付いただけでも5ケ所程崖崩れが起こっていました。
これから先は次第に収束に向かうと思われますが、自らの安全と被災地支援を考えて参りたいと思います。
6月の例会予定他
・6月 1日(水)
次年度クラブ協議会
理事会
・6月 8日(水)午後6時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
家族会 夜間例会
・6月15日(水)
献血例会
・6月22日(水) 日田市の歴史の宿亀山亭
会長卓話 織田荘太郎会長
・6月29日(水)
休会
5月の例会予定他
・5月 4日(水)
休会
・5月 7日(土)
宇土RC創立30周年記念式典
ホテルニューオータニ熊本 中止
・5月11日(水)〜13日(金)
台湾友好クラブ再調印
・5月11日(水) 日田市の歴史の宿亀山亭
会員卓話 石松雅彰会友
・5月18日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
台湾再調印報告
・5月21日(土)
玖珠RC創立35周年記念式典 望山荘 延期
・5月25日(水)
職場例会 昭和学園高等学校
・5月28日(土)〜6月1日(水)
韓国ソウル国際ロータリー年次大会
4月の例会予定他
・4月 6日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
雑誌月間 北郷太門雑誌委員長 ・理事会
・4月10日(日)
地区研修協議会
・4月13日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
地区大会報告
・4月20日(水)
休会のまま
・4月23日(土) 日田市のマリエールオークパイン
3クラブ合同例会
日田中央RC40周年記念式典 →中止(秋ごろに延期となります)
・4月27日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
ロータリー情報月間 田嶋R情報委員長
理事会
会長の時間35 平成28年4月13日(水)
地区大会報告
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
3月26~27日に地区大会が、熊本市民会館崇城大学ホールで開催されました。
出席者は日田クラブから織田、佐竹委員長、江藤幹事、松本会友、永田会友、田嶋会友、諌山会友、井上会友、石松会友、原会友、森山会友、湯浅会友、一の宮会友、中西会友の14名です。
大会ではRI会長代理に、2008~9年にご自身もRI会長を務められた李東建(イドンカン)氏が来られ、アドレスと最後の大会所感を述べられました。アドレスでは、変化を受け入れ、もっと懸命に努力しなければならないと、そのように述べられました。
地区大会には、韓国や、台湾からも多数参加されていましたが、休憩時間にステージ上の李東建RI会長代理の許へ、挨拶や写真撮影の為に韓国の参加者が全員ステージに上り行動する姿は日本人とは少し違うなと感じました。
大会はコンパクトに速やかに進行していきました。
メインプログラムの「ポリオ ダバイ ピライエ」とは耳慣れない言葉ですが、ポリオ撲滅の為の活動を、パネラーの奉仕活動や体験談を通して我々に紹介し、教え、そして喚起する大変興味深いプログラムでした。パネラーは6名です。
1人目は、福祉活動などに経験豊富な、地元熊本放送局の女性アナウンサー。
2人目が、ポリオ投与の為に今回インドでの活動に実際に参加された、野田ガバナー御本人。
3人目は、ポリオ投与活動を長年主催しておられる、代表でエキスパートである医師のロータリアン
4人目は、小児まひにかかり、マヒが残り今も車いす生活ですが、立派に工場長を務めておられる方
5人目は、ポリオ投与のインド旅行に初めて参加し、その意義に大変感動している若いローターアクトの女性
6人目は、同じくこの活動に参加した若いロータリアン。
以上6人のパネラーが、それぞれ活動と経験を踏まえたしっかりした話をされました。
昔し、日本にポリオが流行しワクチンがなく困った時期、アメリカでもポリオが流行し自国の対応に追われていた、その時国交のないソ連から大量にワクチンが送られてきた事。
ポリオに感染してマヒの為、車椅子の生活だが、工場長を任され立派に務めている方の話。
ローターアクトの女性は、この活動に初めて参加し、その意義に感動し、機会があればまた参加したいと話していました。
ワクチンの投与は、舌の上に2滴ほどワクチンを垂らし、投与の済んだ人には手の小指の爪に黒のマーキングをする。この色は長期間落ちないそうです、すでに投与の済んだ子がほとんどだそうです。
野田ガバナーご自身も、この日の為に事業に参加され、インドまで行き活動されています。
本当に、誠実に、確実に行動する、野田ガバナーの本質を見た気がして、今までにない取り組みだと非常に好感を持ちました。
野田ガバナーご自身も、インドでのポリオワクチン投与活動の報告を通じ、ポリオについての理解を深めるにとどまらず、我々は何をなすべきかという問題提起が出来たのではないかと、手ごたえを感じておられるようでした。
次にもう一件、別府北ロータリークラブのグローバル補助金を使った事業報告に、難しい事業によくぞ取り組んだと、感心しました。我々日田クラブは地区補助金を利用して、単独でミャンマーに学校を建てましたがその時にグローバル補助金の難しさに気付いていました。
グローバル補助金は単独クラブではなく、いくつかのクラブと共同して計画をしなければなりません、その代り補助金額はけた違いに大きくなります。別府北クラブの場合は、自己資金60万円に対し、総事業費1130万円となっています。日本からは別府北クラブのほかに6~7クラブが参加し、相手国タイではクロイントRC外19クラブが参加、共に協力してタイ バンコックのソムチェックホスピタルに2台の最新型人工透析器を寄贈した事業だそうです。
2720地区にグローバル補助金推進チームを作って進めたと伺っていますが、よくこれだけの数のクラブをまとめる事が出来たなと改めと感心させられました。
会長の時間34 平成28年4月6日(水)
名字について
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
近頃、「夫婦別姓」という言葉を良く耳に致します。
西日本新聞1月9日の記事に、伝統でない「夫婦同姓」という論評がありました。
(記事では)日本に戸籍制度が確立したのは「壬申戸籍」によってであり明治5年の事である。これを機に身分制度を担ってきた「姓」「氏」は解消され「名字」となった。「名字」は3年後義務化されたがどんなものでも届け出さえすればよかった。そもそも江戸時代まで武士は「夫婦別姓」であり、庶民には公的な姓も氏もなかったのであるから、まさに「適当」につけたはずである。・・以下省略
江戸時代には百姓町民には名字がなかった? ・・・これは本当でしょうか、嘘でしょうか?
江戸時代武士階級は「夫婦別姓」であった? ・・・これは本当でしょうか、嘘でしょうか?
まず、庶民には公的な姓も氏もなかったのであるから、まさに「適当」につけたはずである。という表現は、かなり乱暴な表現をしています。
明治3年、平民苗字許可令が出されますが、世間ではあまり関心がありませんでした。
明治8年、平民苗字必称義務令が出されて、一般平民すべて名字を持たなければならなくなります。
この時庶民は、皆適当に名字をつけたと思っておられる方が多いと思いますが、これは間違いです。
江戸時代は、百姓町人に名字を公的に名乗ることを許さなかっただけで、名字を消滅させたり、取り上げられてしまった訳ではありません。公文書には百姓町人の名字は載っていませんが、私的なお墓、鳥居、庚申様、神社奉納帳などのものには、ちゃんと名字が見られます。これは、名字自体を庶民の多くが、かなり高い確率で保持伝来していたということです。江戸時代は250年続きます、その間には名字が分からなくなった人もいるかも知れませんが、それはごく少数派です。
そう言う訳で、その時に適当に名字をつけた人もいた、という表現が正しいと思います。
次に、江戸時代の武士階級は夫婦別姓だった。これは本当です。
武士は男の世界であり、男が武士の「家」を継ぐが、しかし「妻」はよそ者だという概念でした。
明治5年には名字の変更が禁止され、そこで問題になったのが「女は結婚した後、生家の名字を名乗るのか、夫の名字を名乗るのか」ということです。
政府が「夫婦別姓」を堅持したのは、「家」は血族を持って構成されるべきで、「妻」は外部の者だから、「家」の姓から除外すべきである、とする考え方です。政府には、武家出身者が多く武士の習慣が民法に適用されたのでしょう、これは明治9年から明治31年まで続きます。
この間、「夫婦同姓」の伺いが何度か出されていますが、政府は聞き入れません。しかし、庶民の方は「夫婦同姓」が慣習であり、いくら政府が「夫婦別姓」を説いても従えなかったという訳です。これによって、明治31年に民法が執行され、ようやく「夫婦同姓」となります。
それから120年後の今、再び選択的「夫婦別姓」論が出て来ました。明治時代とは意味合いが違うでしょうが、以前「夫婦別姓」から「夫婦同姓」に何故変わったのかご存じなのだろうかと、心配になります。
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