Archive for the ‘卓話’ Category

広瀬淡窓と咸宜園について

2014-09-17

咸宜園教育センターの深町浩一郎氏に卓話頂きました。

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<卓  話>広瀬淡窓と咸宜園について

咸宜園教育センター 深町 浩一郎氏

⑴日田の歴史ー淡窓を生んだ近世日田の繁栄

①古代から北部九州の交通の要衝として繁栄

・八方に通じる陸路交通、筑後川の河川交通

・「豊後国風土記」や弥生遺跡群

・中世は、大蔵氏の支配(永興寺・岳林寺)

②近世は幕府直轄地「天領日田」として九州の政治・経済・文化の中心地

(政治)西国筋郡代が置かれ九州の諸大名を監視

(経済)日田商人が御用達・掛屋として活躍

(文化)商業的繁栄をバックアップに町人文化(日田俳壇)が繁栄

※「豆田町」は江戸時代初期の町割と伝統的町並みを残す地区で「重要伝統的建造物群保存地区」として国の選定を受けている。

 

⑵広瀬淡窓の生涯

①生涯(略年譜)

天明2(1782)豆田魚町で商家「博多屋」長男として出生

7歳「四書」等を学びはじめる

10歳 漢詩を学びはじめる

16歳 福岡亀井塾に入塾

19歳 亀井塾を病気で退塾

24歳 長福寺学寮で塾を開塾

26歳 桂林園を建築・移転

36歳 咸宜園に移築・開塾

安政2(1856) 75歳で病没、長生園に葬る

・私塾「咸宜園」塾主(50年間)

・生来病弱で病気に苦しむ生涯(三大厄)

②評価 ・豊後三賢の一人「三浦梅園」「帆足万里」「広瀬淡窓」

・幕府からの永世苗字帯刀の恩命(61歳) 全国的評価

 

⑶淡窓の三つの業績

1.「教育者」淡窓

①「咸宜園」―近世最大規模の私塾

・50年間塾主 文化2(1805)〜安政2(1855)

(塾は養子・門人が継承し、明治30年まで92年間存続)

・塾生数(入門簿による)3,186名(92年間では4,797名)

全国66ヶ国(隠岐・下野を除く)

・主な門人(政治家)大村益次郎、長三洲、松田道之、中村元雄

(科学者)上野彦馬、山本晴海

(蘭学者)高野長英、岡研介、武谷祐之

(儒学者)広瀬旭荘、広瀬青邨、広瀬林外、中島子玉、

村上姑南、園田鷹城、劉石舟、谷口藍田、

阿部淡斎、秋月橘門、恒遠頼母、重富健助、

田代潤卿、井上直次郎、楠本瑞山

(僧 侶)小栗栖香頂、小栗憲一、赤松連城、釈樵禅、釈徳令

(歌 人)大隈言道

(画 家)帆足杏雨、平野五岳、千原夕田

(医 家)小林安石、辛島春帆、佐野東庵

(勤王家)大楽源太郎、藤井藍田

(淡窓以降の門人 清浦奎吾、横田国臣、朝吹英二)

②教育の特色

・平等主義 「三奪法」入門時に学歴・年齢・身分を奪う

・実力主義 「月旦評」無級〜九級(上・下)の19等級

毎月成績による席次評価、教育課程「課業」「試業」「消権」

・個性尊重 「鋭きも鈍きも共に捨てがたし、錐と槌とに使い分けなば」         (いろは歌)、「咸宜」〜ことごとくよろし

・実学主義 「職任制」全員に職務分担・自治組織・規則類

「人を教うるは先ず治めて後これを教うるなり」

・情操教育  詩作の奨励「詩は情を述べるもの」

 

2.「漢詩人」淡窓

①江戸後期の三大漢詩人「菅茶山」「頼三陽」「広瀬淡窓」

②詩集『遠思楼詩抄』初編2巻、第二編2巻、詩話『淡窓詩話』

③有名な漢詩「桂林荘雑詠諸生に示す 四首」「隈川雑詠 五首」「彦山」

「淡窓 五首」「筑前城下作」「江村」「中島」「南遊追憶」など。

 

3.「儒学者」淡窓

①学派的位置「通儒(万事に通じた儒学者)」(文玄先生碑による)

②淡窓の学問的態度

・自主的態度〜自分の修養のための学問

・本文主義〜註釈によらず本文のみを熟読

・実学主義〜日常の生活や生き方に役立つ学問

③主要著作『約言』(敬天思想・禍福応報論)、『析玄』(老荘思想・制数論)、

『義府』(易の思想、陰陽の理)、『懐旧楼筆記』(自叙伝)、

『迂言』(経世論)、『論語三言解』(語録)など

④敬天思想の実践『万善簿』善行(○)・悪行(●)の記録

一万善をめざす実践 54歳から始め67歳で達成(12年7ヶ月)

のち73歳まで継続(6年7ヶ月で6千余記録)

 

⑷淡窓の生涯に学ぶもの

①自省養生の生活

生来病弱で病気に苦しむ一生(三大厄) 養生して75歳の長寿

善行の実践「万善簿」〜高潔誠実な生き方

②地域に生きた生涯

ほとんど一生涯を日田の地で生活(旅行範囲は北部九州のみ)

全国の多くの文人・政治家と交流して活躍

全国的評価(幕府から永世苗字帯刀の恩命)をうける

③独自の工夫を重ねる

教育システムに独自の工夫(教育を天職として努力)

徹底した平等主義の「三奪法」、徹底した実力主義の「月旦評」、

規則正しい塾生活の「職任制」と「塾約・規約」、

個性尊重、情操教育の「詩作奨励」など

「人材を教育するは善の大なるものなり」

 

多くのハンディを抱えながらも、与えられた条件の中で地道に努力し、高い評価を得た勤勉・誠実な生き方に教えられる。

 

⑸「世界文化遺産登録」の推進運動

・近世日本(江戸時代)の教育水準の高さは世界に類例がなく、その基盤の上で明治維新以降の急速な日本の近代化が成し遂げられたもので、その教育学校遺産を「世界文化遺産」として登録するもの。

・『近世日本の教育遺産群』として「咸宜園(日本最大の私塾)」を、水戸の「弘道館(日本最大の藩校)」、足利の「足利学校(日本最古の学校)」、備前の「閑谷学校(日本最古の郷校)」とともに、世界文化遺産登録(ユネスコ世界遺産委員会に申請)をめざす。

(平成24年11月に3市で「世界遺産登録推進協議会」を設立して推進運動に取り組んでいる。

 

亀山公園は昔 お城だった!日隈城 日田市文化財保護員 熊谷洋一郎

2014-08-27

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パスト会長卓話

2014-08-20

パスト会長である井上幸一会友と佐藤建身会友のお二人から卓話をいただきました。

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井上幸一パスト会長

皆様こんにちは。武内委員長から何か話をしてくれということを言われ「10分で終わるけどいいか」と聞いたら「いい」ということで引き受けましたが、娘に聞いたら「5分にしなさい」といことで、そっちのほうを選ばせていただきたいと思います。

ロータリーに入って50年になりますが正直とりたてこれということやっておりませんですいません。ガバナーが中津の向笠さんの時でありましたが1982年にカナダでトロントということがありますが、ここで世界大会がありました。他に言うことが無いので、このことを触れさせていただきたいと思います。カナダという国は何回かいったことがありますが景観は世界一じゃないかと思っていますが、ご婦人の方が小柄な方が多いですね。フランス系が非常に優秀で、どんどん人口を増やして来たということです。フランス系の小柄な美人が多いということです。家内も一緒に行っておりましたのであまりそれを強調できませんが、非常にすばらしい国でありました。自分のことを触れますと終戦時には高射機関砲の照準器を作っていました。今の日田高の2年の時に終戦になったわけですが、我々が作る照準器なんで当たらんわけです。作ったうちの何機かは多少役に立ったと思いますが、それでも当たる日本の機械は精巧でありました。

ちょっと現在両耳があまり聞こえないものですが、時たま大きな声を出すかもしれませんがお許しを願いたいと思いますが、お医者にいってもあんたはもう歳なきもうしまつはつかんばい、ということで退けられますので、自分の発言もなかなか大変です。若い時は非常に喋るのも好きだったんですが、もう黙ってしまって、家内もあまりものを言うてくれません。自分では一生懸命がんばってるつもりです。

もうちょっとありますが、ロータリークラブに入ってありがたかったことがもうひとつあります。それはゴルフです。アメリカのマスターズを見に行って参りました。もう30年前になりますか、ともかく桁違いですね。まだまだ日本はゴルフでは他の国にも勝てません。女性もほとんど他の国は韓国かそこらばかりで、なかなか日本人の優勝は無いです。これは私もハンディ5までになりましたが、アプローチとパターで絶対に勝たんですね。マスターズなんか、ここにホールが有ると、ぜんぜん違うところを狙ってるんですね。スライスラインも極端ですから、日本人がぽっと行って勝つわけないのがよくわかります。それと観客の態度ですがパターのする前、パッと水を巻いたように静かに一声も聞こえません。ギャラリーは何千人かおりますけど、全く音がしない。これは実に感心することで見習うべきことだったと思います。もうだいたい5分を過ぎましたかね。非常に頭の整理ができておりませんので、これぐらいで勘弁していただきたいと思います。失礼しました。

 

 

 

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佐藤建身パスト会長卓話

私は日田ロータリークラブに入会しましてちょうど45年になります。歳月の過ぎるのは早いもので、昭和44年の5月でしたが、創立5周年記念の直前37歳の時でしたが会員の伊藤隆さんに薦められて何もわからず入会したものでした。当時は出席100%が続いておりメーキャップするように言われ、当初は先輩が同行していただいたこともあります。その時は近いクラブでも甘木と久留米だけでしたので、例会日を外すとどこかを探して必死にメーキャップしたものであります。クラブ全員が100%出席を続けるというのも立派なことでもありましたが、大変な負担でありました。たまたま会友の後藤豊次さんの父上が病気で亡くなられましたことによりまして、長く続いた100%が途切れることとなりました。非常に残念なことではありましたが、みなさまほっとしたものでもありました。しかしその後も出席は厳しく言われ、調べてみますとその後も90%台で来ております。最近は落ちておりまして出席率80%前半ということであります。もう少し皆さんメーキャップを心掛けたらどうだろうとかと思っております。

ロータリーでの思い出は色々数々ありますが、昭和39年に我がロータリークラブは29名のチャーターメンバーで発足したわけでございます。藤蔭高校にインターアクトクラブを5周年記念行事で結成し、10周年記念として昭和49年に日田中央ロータリークラブの結成に尽力いたしました。15年周年の時会長は税理士の梶原子之吉さんで私が幹事をしておりましたが、膳所美光先生を団長といたしまして当時のマッチングクラブのしてマレーシアのペナンロータリークラブとタイピンロータリークラブを親善訪問いたしましたが、そのときのことを思い出します。私どもがついたのは夕方で有りましたが、現地のご夫妻の方々と宿泊するラササヤンホテルというのは大変に豪華で立派でございました。門前には銃を持った番兵が立って、部屋は広く素晴らしいものでした。その時のことですが江藤俊男会友が、部屋の中に部屋がある豪華な広い部屋に割り当てられたのですが、なんと夜中に私の部屋に来て泊めてくれということで枕を持ってきました。広いほうの部屋で明日の朝から会合があるので、あんたの部屋に泊めてくれ、ということでした。ペナンは色とりどりの美しい小鳥がおりました。またタイピンロータリークラブの訪問のためにマレー半島を南下して行きましたが、ヤシ林とゴム林は非常に珍しいもので有りまして、親睦交流は本当に楽しいもので有りました。その後バリ島のクラブも親善訪問したことが有ります。飛行機に乗る前にお土産にウイスキーをもって行ったんですがなんと訪問したら女性だけのクラブで、まして禁酒の国であり有りました。

私は日田ロータリークラブの例会に出席することで、皆様方と楽しく過ごすことができました。違った業種の方々と仲良くなれたということはたくさんの知識を身に付けたということで非常にありがたいと思っております。われわれのロータリークラブは創立50周年式典も祝うことが出来ましてとても誇らしいと思っております。会員として在籍できたことを心から嬉しく思っております。ますますの発展を祈るとともに、私自信が82歳となりましたが、映画の中のセリフではありませんが「もういいかい?」といって来たら「まぁだだよ」と健康を保ち、今後の余生をロータリーと共に楽しんでいきたいと思います。

新入会員入会と会員増強維持委員長の卓話

2014-08-06

3名の新入会員がありました。田嶋会長より、入会にあたっての心構えが話され、バッジと4つのテストなどが手渡されました。

また、その後、会員増強維持委員会の河津委員長より、会員増強の方針が話されました。

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シドニー交際大会報告

2014-07-23

シドニーで開かれたロータリー国際大会に、日田クラブからは、木下和彦会友ご夫妻と、河津龍治ご夫妻が参加しました。

大会の報告が木下会友よりありました。

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クラブ協議会 各大委員長発表

2014-07-16

大委員長がそれぞれ今年度の活動方針を発表しました。

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会長の時間1 平成26年7月2日(水)

2014-07-02

クラブ運営方針
2014.07.2

日田ロータリークラブ会長 田嶋 篤

2014~2015年度 日田ロータリークラブ会長方針
ロータリーを良く知り、ロータリーを楽しもう
日田ロータリークラブ会長 田嶋 篤

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2014〜2015年度ゲイリーC.K.ホァンRI会長は、自分たちはロータリーを充分に社会に紹介していないという理由から、「ロータリーに輝きを」をテーマとしました。
ロータリーは、世界中の多くの地域社会でたくさんの良いことを行ってきました。私たちは、自分たちが行ってきたことを誇りとすべきです。良いことを行ったら、そのことを人々に伝えるべきです。そうすることで、もっと大勢の人が入会し、多くのニーズに応えることが出来るのです。

これを言い表している英語の格言があります。
It’s better to light a single candle, than to sit and curse the darkness
「ただ座って暗闇を呪うよりも、ロウソクを灯した方がいい」

世界には問題が山積みとなっており、大勢の人が助けを必要としています。しかし、「自分に出来ることは無い」と言って何もせずにただ座っている人が大勢います。これでは、何もかも暗闇のままです。

しかし、ロータリーは違います。ロータリーの考え方では、ロウソクを灯すのがロータリーです。私が一本、あなたが一本。こうして、120万人全員がロウソクを灯します。力を合わせれば、世界を光で輝かせることが出来るのです。これが「ロータリーに輝きを」の意味するところです。

日田ロータリーをどう輝かせるか、自分のロウソクをどう灯すかは、皆さん次第です。自分が何を得意とするか、自分に何が出来るか、地元地域社会が何を必要としているか、どう支援できるかを皆で考えて行きましょう。それには、小山がバナーのスローガンである「ロータリーを学び直し、新たな第一歩を踏み出そう」の元、会友の皆様と共に学びましょう。

ロータリーを学び直し
ロータリーの精神とロータリーの奉仕活動の原点を学び直し
そして、ロータリーの素晴らしさを実感し

新たな第一歩を踏み出そう
私たちがこれまで行動していたロータリーの範囲を押し広げ、自らの意思で新しい第一歩を踏み出そう。
世の中に良い事をするために

1.しっかり学び直そう
①ロータリーの友、ガバナー月信を資料として例会をセミナーの場としてロータリーの全体像を知ろう
②国際ロータリーが世界で行っている奉仕活動を知って協力しよう
③他の地区が実施している奉仕活動を知って地元のニーズを見つけ出そう
④地区セミナーには出席義務者のみならず、自らが関心を持つセミナーにはできるだけ積極的に参加して視野を広めよう

2.地区のIT化を推し進めよう
①各クラブから選出されたIT委員はITを学び、クラブのITリーダーになろう
②月信をデジタル化して地区のホームページに貼っています。必要に応じてプリントアウトしよう
③地区からクラブや会員個人への連絡はメールを主体にしていきます

3.ロータリーの公共イメージを上げよう
ロータリーデーを開催し、積極的に地域にロータリーの素晴らしさを伝え知名度をアップしよう

4.会員を増強しよう
①ロータリーの良さを知ったら知人に伝えよう
②知人をロータリーの友人としよう
③新会員の会員紹介は月信で紹介して会員増強を推奨する

5.青少年奉仕を重点的に行う
ロータリーの事業である青少年交換事業を復活する。第3630地区との短期交流事業を計画実施する

6.RLI(ロータリー・リーダーシップ研究会)を実施しよう
ファシリテーターの育成からスタートする

7.五大奉仕の真の意味を理解し実践しよう

以上1〜7は、小山ガバナーの地区スローガンの内容でありますが、私のかねてからの思いと近いところが多いので、この内容に沿って会長方針とします。

ロータリーを良く知り ロータリーを楽しもう
・入会3年未満の会員は、出席義務の有り無しに関わらず、できるだけ出席する
・各委員会の配置はダブらないようにしていますので、委員会を積極的に活動する
・会員増強は、会員を増やすのみでない。現会員がロータリアンとして誇りを持ち活動できるように自己啓発に努める
・クラブ協議会は例会とは別に行う
・ロータリーの四つのテストに照らし、会員の多くがロータリーライフを楽しめるように、変えてはいけない所と、変えた方が良い所を見て図っていく

図らずも、57名が日田ロータリークラブに集ってわけですから、親睦を行い、同じ奉仕の喜びを味わうために共に努力しましょう。パスト会長は豊富な経験と知識を活かして、経験の浅い会員に声掛けを積極的に行い回の中心的存在となってください。
親睦とは、多くの人々と交わることにより、自己の高揚、自己の研鑽をして、ロータリアンとしての矜持を保つように努めることだと思います。

最終例会会長卓話「一年を振り返って」

2014-06-25

「一年を振り返って」

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

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先日の50周年記念式典と祝賀会、皆様大変お疲れ様でした。私も、先週は何もする気になりませんでした。

「一年を振り返って」とは言っても、先日の創立50年記念式典と祝賀会が、皆様のご尽力によって成功裏に終わったことが、この年度の全てであると思います。ありがとうございました。

 

ご来場者に失礼があったり、ミスもあったりもしましたが、これもロータリーの寛容の精神でご容赦いただけるものと思います。

 

参加者の皆さまは、特に三隈川に浮かぶ遊船での祝賀会と花火には概ね満足されていたようであります。私が聴いた範囲では「日田はいいね。さすがに天領だ」という皆さんの感想でした。

嘉義玉山の方々も浴衣に着替えて十分に川遊びを堪能されているようでした。あるクラブは、来年の川開きの遊船の予約をされていったそうです。

 

今回の50周年の式典と祝賀会で、日田クラブが第2720地区の中でも有数のクラブになったことを他のクラブに強く印象づけたのではないかと思います。

 

さて、今期も前年度に引き続いて「一眼を足下に、一眼を世界に」という会長方針でスタートしました。

 

まず、「足下」ということで申しますと、今期当初の会員数は54名でしたが、佐竹会員増強委員長をはじめ皆様方のお蔭で現在57名のクラブとなりました。女性会員も3名になりました。

 

入会者もさることながら、この2年間、退会者は会社都合の1名で、今年度は一人も退会者が居ませんでした。それだけ、クラブ全体で50周年にかける熱意があったものと思います。

そして、この2年間、ご病気はございましたが、皆様がお元気であられたことを最も私の喜びとするところです。

 

この一年間も地区のセミナーが数多く開催されました。熊本が多かったのですが、副会長、各委員長と委員さんなど、多くの方が積極的に参加して下さいました。遠い人吉での地区大会にも沢山の会員が参加しました。

やはり、ロータリーの考え方を知ることと、他クラブの人と交流することが、ロン・バートンRI会長の「Engage Rotary Change Leves(ロータリーを実践し、みんなに豊かな人生を)」ということだと思います。

 

また、各クラブから案内のあった周年行事にはほとんど参加しましたが、このことにより、今回の私どもの50周年記念式典に多くのクラブからご参加いただいたものと確信します。例えば、別府クラブは登録だけの方が多くいらっしゃいました。昨年度、日田からバスで多数参加したお返しだと思います。来期以降、日田クラブもこの点を考慮する必要があると思います。

 

 

次に、一方の「一眼を世界に」ということでは、国際交流のための中国語講座を2年前に有志で開講いたしましたが、残念ながら少しずつ受講生が減っています。来期以降の検討課題です。

 

卓話も、海外とのビジネスや交流の経験を卓話してもらうということも会長方針に挙げていましたが、8月にダータス・ノリコさんご夫妻の「なぜ、日本人は警官もいないのに悪いことをしないのか」という話は印象的でした。

10月には、キータンゴン村をお世話いただいた、古庄重生さんにミャンマーの現状をお話しいただきました。

 

台湾の嘉義玉山扶輪社との交流も7年目になりますが、毎年、お互いに訪問し合うことで仲良くなっています。今年も4月23日の嘉義の15周年式典に8名で参加して来ました。300人を超える盛会でした。翌日は大正時代に出来たという嘉義ゴルフクラブで先方の会長たちと懇親を深めてきました。

 

そして、50周年記念事業の一つとして、ミャンマーでの学習小屋改修ですが、昨年の8月5日付で、ロータリー財団本部からロータリー財団補助金の承認を頂きました。

この補助金申請については、地区補助金の裁量範囲だと思っていたのですが、結局、米国のロータリー財団本部まで申請が上がりました。

米国財務省のチェックリストまでが届いたのには驚きましたが、幸い、本部に和田はるかさんという日本女性がいて、彼女とメールのやり取りをして最終的に承認が下りました。彼女がバックアップしてくれたのだろうと推測します。

 

今年の3月22日の中津ロータリークラブ60周年記念式典に来られていた田中作次RI前会長に、ミャンマーでの学校改修の話をしましたら「えっ、良く通ったな」と言われたので、改めてこちらが驚きました。金額は少ないですが、ミャンマーでロータリー財団補助金を使って事業をしたのは、世界で初めてだと思いますので、50周年の事業として良い記念になったと思います。

 

昨年10月27日に、建設資金の一部をキータンゴン村に届け、4月に完成したとの報告があったので、田島副会長と織田R財団委員長とで、開校式に参加すべく現地を訪れましたが、残念ながらまだレンガを積んでいる状態でした。

この時に、学校で使うパナソニックのソーラーランタンと日本の図鑑、校舎に貼る日田ロータリークラブのプレートを置いてきました。

 

校舎が未完成では、50周年記念式典で発表できないので、6月2日に田嶋副会長と北川会友とで再びキータンゴン村に行って、開校式兼始業式に参加し、建物の完成を確認して写真を撮って、やっと50周年に間に合った次第です。

なお、この事業は昨年、大分合同、西日本、読売、毎日、朝日の新聞各社から報道され、ロータリーの公共イメージを高めるとともに、この記事を見た方からご寄付もいただきました。

今日も、記者クラブで校舎完成の報告をしてきましたので、近日中に報道されると思います。

 

この他に、この1年間、ゲスト卓話、会員卓話、職場例会、家族会などの夜間例会等々、各委員長と委員の皆様には大変ご苦労様でした。

 

この1年間のクラブの運営のイメージとして

「楽しい・面白い・為になる → 有為な会員が増える → 自他共の成長に繋がる → 強いクラブになる→ 世の為、人の為にサーヴィス(奉仕)する → 公共イメージが向上する → CHANGE LIVES」として来ましたが、

会友各位に支えられまして、無事、1年間を終えることが出来ましたことを感謝いたします。

本当に皆さま、有り難うございました。

 

50周年実行委員会

2014-05-07

石井実行委員長より、50周年事業の進捗とう説明がありました。
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雑誌月間卓話 井上太香美会友

2014-04-02

雑誌月間にちなみ、ロータリーの友の卓話の泉から卓話いただきました。

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卓話 ロータリークラブ雑誌月間にあたって 雑誌委員長 井上太香美

今月は雑誌月間ということで、毎月発行されている「ロータリーの友」の中から話題を探ってみます。この雑誌の中に「卓話の泉」という欄があります。この欄は、各クラブの会報、週報に掲載の卓話の中から、客観的内容の話題、ミニ知識となるものを主に選んで編集されています。今月掲載されている話題に「労使間のルール」というものがあります。たまたま私の本業がこれに絡んでおりますので解説を加えてお話しいたします。

近年、労使間におけるもめ事、紛争が大変多くなっていると記されておりますが、私の周りでも顕著に見受けられます。筆者も述べていますが、昔の紛争は集団的な労働争議が主たるものでしたが、現在は個々の労働者と会社との間の「法規」を根拠とする個別紛争に変化してきました。この流れから、未然に紛争を防止するため労働契約法ができました。今日はこの法律についてお話したいと思います。

私が感じますに多くのトラブルは、使用者の勘違いにおいて発生するということです。つまり使用者に労働契約すなわち「契約」という意識が薄く、「使用従属関係」の意識が抜けていないように見受けられます。次に中小企業の甘え「法律を守ったら会社がつぶれる。だから守れない。」という意識があります。いずれも法治国家においては通用しない理論です。個別紛争は「会社の命取り」になります。資料として関係法規を抜粋してまいりました。今一度、会社の現状と条文を見比べて個別紛争が発生しないよう対策を立てていただきたいと思います。

 

 

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ネパール歯科医療協力活動に参加して 澤熊正明会友

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人吉地区大会報告

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人吉地区大会報告

(小ヶ内幹事)
3月15(土)・3月16日(日)に行われた人吉での地区大会の模様をスライドを使って報告させていただきます。こちらが赤山ガバナーです、来賓祝辞の場面ですね。写っているのが国際RI会長代理のフレデリックリンさんです。

こちらは友愛広場でコーヒータイムの場面です。ガバナーエレクトとノミニーです。紹介をしているところです。

今回の地区大会の目玉は「心に残るロータリー体験発表」でした。途中臼杵中央ロータリーの小野健介さんが出て、ものすごい傑作でした。厄払いにいった年に脳梗塞にかかったなど、話していただきました。本渡の龝山さんはオーストラリアから奥さんのところに養子に入ったというロータリアンでした。交換留学生をやっているんですね。これは懇親会会場の一番最初の庭みたいなところです。懇親会場は体育館です。この写真では高之さんは珍しく座っているんですが、オペラや余興がたくさんありました。なかなか素晴らしい余興でした。これは人吉の相良太鼓です。これが本田さんです。これが会長代理のフレデリックリンさんです。これは玉名の杉谷さんです。これは翌日にいろいろな表彰が送られたところです。これは木下直前ガバナーです。これは各ロータリーからのPR情報です。次の地区大会は大分です。メイキングムービーが流れました。これは中津ロータリー60周年のイベントの告知です。今回地区大会に29名登録してるんですよ。ともかくすごかった。で日田です。横断幕がでかいですねー。こういう風にやりました。この画面に祇園とかの映像を流しましたがかなりの反響が来ました。これを見ながら会長が話をしていただいたということです。これは日出のロータリーの30周年です。

これは大会所感の場面です。ほんとに人が良いというか、とっつきやすいガバナーという感じがしました。それから講演者の竹田恒泰さんが下手なコメディアンよりも話が面白く、笑わせっぱなし、聞かせっぱなしでした。

 

出席者報告

(佐竹会友)

日田ロータリーの50周年記念招待者の中で最も重要な一人である、玉名のパストガバナー杉谷さんがおりますが、彼はRI理事になりました。世界で17人しかいない立場の人です。私は杉谷さんを見つけて、そのまま日田ロータリーのテーブルに連れて行ったんですが、そこに古くからいる会員はいなくて、いたのは杉谷さんを知らない若い湯浅君や佐藤くんだけで、ぽけーっとしちょったんで失礼しました。講演者の竹田恒泰さんを小ヶ内君がコメディアンの様だといいましたが、「私振られました!」と華原さんのことを最初から一発言ったもんで、どっと賑わいが出来ました。

 

(織田会友)

まず驚いたのがこのパンフレットです。こんな小っちゃいのです。良くここまで小さくしたなぁ、ということに感心しました。難点はすぐ捨ててしまいそうな気がします。次に懇親会では日田の50周年の宣伝をやってきました。補助金でお世話になった方にもお礼を申し上げてきました。福岡地区のパストガバナーで大島さんという方がおられまして、橋本会長の卓話をインターネットで見て、どうしても橋本会長の日台親善会議の話を聞きたいということでテーブルにきていました。フレデリックリンさんとも大変親しい感じで、われわれを連れて行った下さって、紹介させていただきました。会長とフレデリックリンさんが中国語で楽しそうに会話をしているのを見て、これはすごいことだな、と思いました。しかし2次会では中国語で女性と話をして、それはどうか、と思いました。みんなと50周年のPRをして、一生懸命宣伝をしてきました。竹田恒康講師の講演も面白く拝聴しました。本当にここまで言って委員会という感じで、早速現代語の古事記を読もうかな、と思っているところです。

 

(湯浅会友)

今回初めて参加させていただきました。まず人数が多いのにびっくりしました。日田市でいうと言うと総合体育館より広い場所でしたが、その広い会場をあんなにアクティブに動き回る諫山会友にさらにびっくりしました。夜はロータリー歓迎ということで、ほとんどのお店が3000円均一で飲み放題でした。どこもかしこもロータリアンでいっぱい、これは日田からもガバナーださなねってみんな言ってました。会長が中国語で女性と話すのをみて、私も勉強しようと思いました。

 

(佐藤会友)

・・・・(オフレコ)。

創立記念例会

2014-03-12

創立記念例会が開かれました。宮崎会友が集めた創立当時からの写真をスライドショーで見ました。

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震災復興卓話 日本緊急援助隊チーム大分 ひた旅行センター 梅山忠信さん

2014-03-05

みなさんこんにちは。このような会にお招き頂き大変ありがとうございます。本日はボランティア活動を行った現地の報告をしたいと思います。お手元に資料がございますが3月11日にこれまでになかった大規模の地震をテレビのニュースで見て、これは何かをしなければいけないと人を募ったところ、ここにおられる河津社長も10名の社員を派遣して頂いて、合計25名で5月に石巻に入りました。

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具体的な活動としては石巻に入って、牡鹿半島でまず漁師さんのお手伝いでした。ワカメの収穫作業。仙台市、名取市にも行きまして農家のお手伝いをしました。地震の発生当時の閖上小学校の時計を見ましたが、その時のまま今でも止まっております。地震の影響かコンクリートがいっぺんに砕け散ってしまったようなところが随所に見られましたが、そのままの状態になっております。津波に襲われた被災者のお世話をしたのですが、津波は少しづつ来るのではなく、ビルみたいな壁が一気に押 し寄せてくる、本当に逃げようもない、恐ろしい波が来るのだそうです。津波で火事が起きましたが、そのほとんどがガスボンベが原因だそうです。地震が起こって、ボンベを閉め忘れて火災が発生するとい うことであります。

津波の前と後ではいっぺんに変わっていました。現在でも瓦礫の山になっています。全く復興ということは目にみえません。家の土台と生い茂っている雑草だけです。津波で両親が亡くなったり、今だに行方不明者を探している震災孤児がいます。身よりも何もない、両親が亡くなって、おばあちゃんもなくなって、ほとんどの人が心に傷を持っています。着の身着のままで43万人が学校や公民館などに避難しました。

私たちが入った石巻市でも、2000人から2300 人、廊下も教室も武道場も、足の踏み場もないほどでした。一番困るのがトイレだそうです。トイレに行こうにもそこでそのまま垂れ流す状況で、避難所の中が異様な臭いの状況 だったと言います。行方不明の人の捜索の紙を随所に貼っていました。私たちはこの状況の中支援をいたしました。これは武道場の様子です。ダンボールで一世帯ごとに仕切りはしていません。むしろない方が病気になっている人が声がかけられて、コミュニケーションも取れるといって、この場所に関しては統制が取れており、私たちも非常に入りやすい状況でした。

食事は毎日これが来ます(菓子パンと牛乳のみの配給)。冷たいまま これを食べさせられる。避難所の晩飯(コンビニおにぎりなど)。8カ月間、避難所にいる方はあったかい物は何も食べてないです。これを食べて避難所におらなければいけません。 避難所では、誰に言われるともなく上級生が下級生に勉強をやっておりました。小学校一年生が始めましたが壁新聞を発行しました。 壁新聞なんでですが、模造紙一枚なんですが、大人たちよりも子供の方が元気でした。これは石巻市の泥だしの様子です。使えそうなお家では泥を出そうということで、農家のイチゴハウスのヘドロを出しているところです。手でヘドロを出しましたけれども、ここを含めてこの前行ったときにはまだなんにも復興されてありませんでした。夏に行った時には氷を作って振舞おうということですが、避難所でかき氷を振舞いました。ここにおられるのは河津建設の方々だと思いますが、炊き出しをしております。こういうものでしか、温かいものを食べることはできません。これが現状なのです。後ろの方に瓦礫が積まれているところですが、おんなじところですが、震災直後、1年後、去年、山がなくなって、更地、荒地が残っているところです。これは被災当時ですが、まだ具体的な計画が何もできていません。復興のシンポジウムができていません。区画整理ができていません。そういう計画ができないわけですが、何も具体的になっていない。

私たちのチームが泥だしをした家庭ですが、その方は69歳の蕎麦屋さんなんですが不幸にもなくなりました。いつどこに転居すればいいのかがわからない不安からということです。家が残っている人流された人、石巻だけでも2000世帯あります。プレハブの長屋です。会話も筒抜けです。人数が 多いところも狭い六畳です。現地の方の心の不安は計り知れません。これは私たちが手伝っていた被災地に行ってボランティアがしたいということで、子供たちを石巻に連れて行きました。泥だしをやっていた家が撤去されているものですから、さまざまなお手伝いをしました。これはホヤの養殖作業です。去年の12月に行った時には大山の河津実幸ちゃんもいきました。筋ジストロフィーということで、特殊なマウスで絵など作品を作るのですが、その売り上げの益金を全部ボランティ アにつぎ込んでいます。前津江小学校のクリスマスプレゼントを現地に届けて欲しいということでやっています。大明中学校では募金活動をやってくれました。それでプレゼントを買って現地に持って行きます。去年の12月にクリスマスプレゼントを持っていました。1泊2日で、さっき行った仮設住宅を一軒一軒回って私たちが配って行ったのですが、現地の方 が涙を流して、本当にありがとうと言ってくれる人が多かったです。プレゼントをもらって喜んで行っている人が多いです。

これは日田の災害の状況です。丸山町です。大山です。大山の綿打(わたうち)は、大山ダムがあってそこにある川はいつもは氾濫しないところなんですが、その反対側の川が氾濫いたしました。高いところまで泥だしをしている姿です。延べで122日働いたところです。モニュメントができていますが、ここではこのぐらいの高さの津波が来ま したということです。まだまだほとんどの地域で、復興というのは見えません。いつになるんだろうというのが、今仮設住宅に住まれている人の気持ちです。その人らはうつ病や不安から自殺に、子供達が疲れているところから、恐怖心が抜けきれないという言うことで、中学一年生は夜一人でトイレに行けない、そういう今、心に傷を負った人が多いので、これからもボランティア活動を続けていきたいと思います。

皆様のご協力ありがとうご ざいます。今日はどうもありがとうございました。

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新入会員卓話

2014-02-26

新入会員のお二人に卓話をしていただきました。

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特別養護老人ホーム日田園で働いております宮崎と申します。今日はこういう機会を与えていただいてありがとうございます。まず最初にどうしてこの仕事をしているかといいますと、私の父が法人の理事長で、母が施設長をしております、というとそれでお終いになってしまいますが、それには二つのきっかけがあります。

もともとは祖父が天瀬で製材業をしておりまして兄弟が3人いたんですが、その3人でダンボール会社を発足するなど、いろいろやっておったんですが、晩年60を過ぎてから病気がちで入退院を繰り返していたんです。閉じこもりがちってわけではないのですが、日田市の保健婦さんがそんなところに尋ねてきて、リハビリをするところがあるから行ってみらんか?という話をしたみたいです。それが中ノ島園であったことはだいぶ後に聞いたのですが、それで非常に活き活きととしてよかったというのが一つあります。もう一つのきっかけでありますが、私が小学校5年のときに妹がなくなりました。九電の水路がありまして、そこに自転車で落ちたらしく、その時に父と母が立ち直れなかったというか非常に悲しんで、たくさんの皆さんにご支援いただいて、何か社会貢献ができないか、子供に携わることができないかということで社会福祉事業ができないかということになりました。社会福祉法人というのは当時認可を取るのもなかなか難しく、思い立って20年ぐらい足ってやっと取れたということを聞いております。その間に祖父は74歳でなくなりまして、父の方が意思をついで平成元年に養護老人ホームとデイサービスセンターをやって現在に至っております。

平成12年までは国の方や市が介護が必要で生活できない方に責任を持ってやっておりましたが、介護保険になりまして、今ではいろいろなサービスを選択できるということで続けさせていただいてるわけであります。皆様方もご存知のように高齢社会の中で社会保障費が高騰する中で、今後私たちのところで取り組んでいくことでありますけれども、私が今思っているのは今でも施設に重きをおいてやっておりますけれど、日田市としても保険料が上がる関係上、施設をこれ以上増やすことができないので、在宅の中でどれだけみれるかということで、24時間介護を続ける努力を続けていかなければならないな、ということです。私どもの嘱託医は宮崎先生で、何かあったときにはすぐ来ていただけるとか、そういう体制を整えていかなければいけません。また施設のキャパが決まっておりますので、それについては今みなきゃいけないという人はみて、家でなんとかみれる状態になったときには、家に帰して、園は家族と伴走をしながら、何とか家で見てもらって、何かあったらいけるってことをしたいと思っていました。

後もうひとつは介護人材の問題です。なかなか若い人がいなくなっている現状で、今うちのほうで生涯現役ということで若い人はいろいろ勉強している中で、高齢の60歳を超えた方に介護教室をしている中で、地域の中でボランティアをできるように、そういう風な形で地域の地区社会協議会の中で、地域の公民館で、お茶飲み会をやったりボランティアで配食のお弁当を持っていくということで、今後も地域の中で支えれるようにがんばっているところであります。

私はそう大して能力があるわけではないんですが、私がやらねばいかん、と勝手に思っているところがありまして、いつも空回りするんですが、せっかくロータリーに入ったのでいろいろご指導いただければといろいろ思っております。よろしくお願いします。

 

 

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職業奉仕賞授与 佐藤実さん

2014-02-19

大分県技能士会連合会 副会長で、日田職人会 相談役の佐藤実さんに職業奉仕表彰をした。

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日田市政について-原田啓介日田市長-

2014-02-05

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原田市長卓話
皆様こんにちは。先ほどから例会を拝見させていただき、大変和やかな会だなと思っております。短い時間ですが将来と、昨年あったことの報告も含めお話させていただきます。昨年最重要課題として取り組んだことは災害からの復旧復興です。工事業者の皆さん方には、随分と無理して徹夜の仕事をいれて頂きました。現在の災害復旧の状況でありますけれども、多くの箇所で復旧作業が進みましたが、まだ完全に修復されるまでに向こう3年ほどかかるのではないかと思います。市内の方には引き続きご迷惑をかけます。橋梁河川つきましても昨年は大きな水害が出たというわけではありませんでしたが、まだ復旧が終わってないところがたくさんあるということでありまして、5月の作付けまでに間に合わないところが4、50箇所残るだろうということであります。年内には終わらせるということで資材が不足している中努力しているところであります。
そのような一昨年の災害を受けて、地域防災士を作っていくということで取り組んでおります。既に190数名の方が防災士の資格を既に取っていただいておりますし、地域防災の基盤を作って行こうとしているところであります。一人一人の防災士ができることはそれほど多くないかも知れませんが、連絡を取り合いながらがんばって行きたいということであります。地域の防災に対して自立的な支援が行われると思います。以上昨年重要課題として取り組んできたことであります。工事終了に向 けて取り組んで行こうかなと思っておりますが、関係の方々にご迷惑をかけておりますので引き続きご努力いただきたいと思っております。

 

 

昨年の流れの中で一つ大きな話がありまして、土地開発公社の解散ということに昨年一年をかけてなりました。つまりウッドコンビナートの解散になります。実際に開発公社が土地を持ったままあの事業を進めて行くと債務超過になるという状況になるでした。国が持っている第三セ クター債というのが本年度までの期限で、24億円ほどの債務を引き受けていただいた、ということになります。結果から申しますと日田市の方としてはあの時がギリギリの判断だったかなと思っております。塩漬けであった土地を解散に持って行ったのですが、今は全土地に対して問い合わせが来ている状況になっています。来年に向けて事業所を判断しながら全てに雇用が出るような状況に進めて行きたいということです。ウッドコンビナートを解散して行く中で、林業の再生をどのようにしなければいけないかを考えて行きました。林業の再生なくしてこの国の再生はなということをこの前の会合で農林水産大臣、林野庁長官との間で話を勧めさせていただきました。山だけの話ではなく出口はどうするか、日田のモデルとしてどうするんだ、という動きがそのあと出てきました。ウッドコンビナートをグリーンポリス構想の中で進めてきましたが、日田の基幹産業であります、林業木工業で利用していただくのが良いと考えていました。我々も勉強をさせていただく中で、一つ乾燥材というものを出して行くことが必要だろうと考えていましたところ、乾燥材を中心として動かして行こうという流れができまして、この日田がしっかりとしたブランドとして作り上げていければと思っています。今後東北の復興が始まって行くこと、五輪・パラリンピックで開催されて行くということでなんとかして復旧の役に立つような場所として、日本の中で認められるようになればと思っています。新しい林業作りに取り組んでいくとともに基幹産業であります農業の振興も測っていかなければと思っています。先月の12月議会の時に採択した議案を持ってきたという ことがありましたがきっぱりお断りしている事案があります。一時しのぎのお金を出さない、ということで相当揉めまして、かなりお叱りを受けたところでありますが、ご理解をいただけてると思うわけであります。生産者から加工者まで含めて、農業の中にも新しいビジョンを作って行こうというような話を、近々のうちに話をしていこうということで、農業と林業の再興を進めて行く課題になっております。

 
長年の願いでありました中津日田の高規格道路であります。やっと県の方も重い腰を上げていただきまして、調査費をつけていただきまして、これでやっと前に進むということであります。路線予定図の作成、地元説明会をやっと始めさせていただいてる状況であります。事業化されるまでいま少し時間がかかるのでありますが、来年に事業決定があり まして、事業開始という状況に持っていければというのが今年のテーマになろうと思います。当面の間無料で使えます。事実上高速道路なので、東九州自動 車道までの時間が早くなるということでありますので、大事なインフラになろうと思います。六次化された産業の中で、流通の仕組みが商品単価の中でお金というものに換算されますので、新しい日田を支えるインフラとして考えて行きたいということです。2月の23日の日曜日に朝10時位から高規格道路の会議があります。新聞紙上などで告知いたしますが、中津日田フォーラムインひた、ということでパトリアの方で開催いたします。これができれば随分今後の経済のあり方、観光のあり方、も変わろうかと思っております。観光の面につきましても、北九州からの流入を利用しようと思っております。京都市長とお話したときに、世界から洋上クルーズに乗ってきてる方たちを取り込む新しい産業を作ったらどうだろう、とおっしゃってましたがまさにその通りだ な、と思っております。中津港について世界に誇れる阿蘇まで進む中で、通過点であっても、観光地の基盤を作っていかなければならないと思っています。環周防灘経済圏の中で北九州空港の24時間化、関税特区の要望を出しているところであります。農産加工品の航空での輸送を考えると、アジアまでドアツードアで12時間から13時間で高品質の商品が並 ぶということであります。我々にとってはこの運動を進めて行きたいと考えているところであります。経済的な話はここまでになります。
最後に自治基本条例のお話をしたいと思います。たくさん皆さん方にパブリックコメントをいただきたいと思っています。なかなか中身がわかっていただけないので、自治基本条例を持って今までの多くの地域周りをしていますけれども、ざっくり申し上げますとこれまでお任せ民主主義の中ではなく、自立した地域づくりを行うために、市民の責任、議会の責任、市長の責任を確かめ、それを元に条例を作り上げたいと思っています。具体的なテーマを掲げながら、これから数年かけて我々市民の誇りになる条例に仕上げて行きたいと思っています。ぜひそういう機会がありましたら、ご協力をいただきたいということで、簡単ですけれども話を終わらせていただきたいと思います。本日はありがとうございました。

介護について-日田市の現況と介護支援専門員-赤坂由美子さん

2014-01-29

日田市介護支援専門員協議会の代表幹事である、赤坂由美子さんの卓話です。

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日田市介護支援専門員協議会 代表幹事 赤坂由美子さん

 

こんにちは。日田市介護支援専門協議会の代表幹事をしております赤坂と申します。普段、私は在宅のケアマネージャーとして利用者さんやご家族の支援を行っております。今日は宮崎先生から日田市の現状や介護についてのお話をしてくださいということで、いとも簡単に引き受けてしまったのですが、いまここに着いて心臓がバクバクしております。木下先生もおりますし安定剤が欲しいところです。今日は第一線でご活躍の皆様の前で大した話はできないかと思いますが、よろしくお願いします。

市役所から日田市の現況についての資料を頂いてきましたのでご参照ください。日田市も高齢化率が上がっておりまして30%を超えております。平成42年には2.5人に1人は高齢者といわれています。皆様の手元にはありませんので口頭で説明しますが、平成23年日田市には全体で26673世帯ございます。そのうち65歳以上の高齢者のいる世帯は14351世帯で、全世帯数の優に半分を超えています。そのうち65歳以上の方の独居世帯は3620世帯です。独居世帯は介護を担う家族がいないということで問題になっています。

介護保険の浸透と共に最近では介護給付も大きくなっております。ご存知のように介護保険は50%が公費でまかなわれています。そのうち25%は国、12.5%ずつが県と市町村が負担しています。残りの半分については40歳からの第2号被保険者の介護保険料が29%、残りの21%が65歳以上の第1号被保険者の介護保険料でまかなわれています。日田市のの介護給付の状況、年度推移でありますが、1日に換算すると1600万円が介護保険に使われているという状況です。高齢化と共に私たちの負担も大きくなっている状況であります。

介護保険で高齢者という言葉をよく使いますが、皆様方、高齢者はいくつからと思いますか?警察署では70歳以上が高齢者とされておりまして、運転免許の検査などがあると思います。介護保険制度では65歳以上75歳未満を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者としております。国連では60歳以上を高齢者80歳以上を後期高齢者としています。高齢者の年齢の定義はこのようにさまざまであります。高齢者を広辞苑で引きますと、年をとった人と実に簡単に書いています。皆様方も65歳の誕生日の月になりますと介護保険の被保険者証が送られてきて、それからは誰でも申請ができる第1号被保険者ということになっています。40歳から65歳未満の第2号被保険者はすでに介護保険料を納めていただいている方ですが、癌でありますとかリュウマチ、脳疾患などの定められている16の疾病に該当しないと介護申請ができないことになっております。

ここで少し私たちケアマネージャーの役割についてお話を聞いてください。介護保険の発足と共に私どもは介護支援専門協議会を立ち上げております。会員は現在140数名、医師や看護師、行政、保健所の方々、施設のケアマネはもちろん、介護福祉士など、たくさんの職種の方々から成り立っています。私たちは単に介護保険のサービスを提供するにとどまらず、利用者さんやご家族の相談援助を仕事と捉えております。毎月事例検討会や気づきの勉強会を行っております。昨年に引き続き3月には公開研修会を予定しております。昨年からはコーチング研修を取り組んでおり、日田市にはがんばっているケアマネージャーもたくさんおりますのでご承知くださいませ。

さて私たちケアマネージャーはデイサービス行きましょう、デイケアに行きましょう、と安易にいうのではなく、利用者さんが少しでも長く生きられるよう、自立に向かっていけるよう計画を立てます。自立という言葉をよく使いますが自立という言葉はとても難しいと思っております。自立にはたくさんの意味があります。身体的な自立、精神的な自立、経済的な自立があります。多くの方が最後まで自分で力で食事をしたい、下の世話で他人にお世話になりたくないと言います。これは身体的な自立です。これは自立の出発点であります。多くの人に人生の中で一番したいことは何ですか?と聞くと、人は自分のしたい事がわからない、人との違いはなんだろう、と自分に問いかけるそうです。これが精神的自立です。自立を自分自身と重ねて考えると、自分のことでも難しいのに、ケアマネージャーは他人の自立を目指して支援を始めますから、利用者さん、家族を通じていつも勉強をさせていただいています。以前宮崎先生とパトリアで在宅医療の中で、看取りについての勉強会を行いました。現在日田市在宅医療連携会議を立ち上げています。介護を担う家族がいない現状でも多職種の連携をとって在宅医療は充実しています。自宅で晩年を過ごせるようになるといいなと思っています。在宅医療をご利用いただいてる皆様はいつも「ぼろのおうちでも自宅で亡くなるのが一番いい」といわれます。日田市在宅医療支援センターを中心として、自宅でも病院と同じようなサービスを受けられるようにしたいと思います。医療設備が整った現在では病院で亡くなる方が多いですが、最後は住み慣れた自宅で過ごしたい、と聞くことが多いです。どちらがいいというわけではありませんが、選択肢の一つとして周知されるべきだと思います。また自分が介護や看取りが必要になったとき、ご家族に対してその意思をしっかり伝えている方が何人いるでしょうか。療養型の医療施設に入院されておられた姑の方ですが、お嫁さんから姑さんの言いつけどおり自宅で見たいんだけど、という相談を受けました。お嫁さんはおむつ交換もしたことがありませんでしたが、お母さんとのお約束を守られて、要介護5でしたが床ずれもなく、病院にいたときと変わらず、単語なんですけれども言葉も返せるほどに回復をしております。自分の気持ちを家族に伝えておくことは大切だと考えています。認知症になってからでは自分の考えを伝えることはできないと思います。元気なうちに話すことが大切だと思います。介護保険サービスを受けることを拒否する方もおりますが、私たちケアマネも安易にサービスを使うのではなく、会員一同、高いレベルのサービスを目指しています。

堅い話が多くなりましたので、日ごろ私が考えていることをお話させていただきます。この仕事を始めてから、これが国道なのかしら、と思うぐらいぜんぜん手入れがなっていない道を通ることがあります。私はこれまで野生の猪を見たことがありませんでした。しかし、野生の猪も最近は荒れた竹林を歩くよりもきれいな道路を歩きたいんだろうと思いましたが、昔はお年寄りが里山の手入れをしていました。今は高齢者はデイサービスやデイケアに行くようになっています。人間関係や、地域のつながりが薄れていることを感じています。姑の力は昔は強かったんですけれども、今は逆転してお嫁さんがショートステイに行きなさいといったらそのまま行かざるを得ない。自分の意思表示ができていないんですね。そういった方の心を追って、何がしたいのか、聞きだす必要がございます。今一度、家族の関係が見直されたらと思います。今日はたいした話ができませんでしたが、最後までご清聴ありがとうございました。

江田弘司会友 新入会員卓話

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青柳会友卓話

2014-01-15

卓話 青柳寿人会友

 

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前回の話が中途半端でございましたので、ご配慮があって再度この席に上がらせて頂いたと思っております。昭和19年に大分の海軍施設部で働いておりましたが、入った当時はまだ航空省ならびに航空隊の施設改築や新築の仕事をわからんづくでしておりました。同じ年度の11月ごろになりましたら「地上の建物は全部もう何もしなくてもよろしい、すべて今から地下の工事に入るので準備をしろ」ということでありました。戦闘司令部というのは大事な部署でありましたので、地下に潜らせるということでありました。大分には第5航空艦隊の司令部がありましたけれども、大分の滝尾に移転する、それも鉄筋コンクリートにで作るということでした。同時に宇佐の飛行機場に掩体壕(えんたいごう)を作ることや、魚雷を海岸端の地下に半地下式で設置するような作業に一転して切り替えてまいりました。戦争がいよいよ日本国内に入ってくるんだなって感じがわかりました。その当時はまだアメリカの航空機の襲撃はありませんでしたが、幹部の方はわかっておるんだなということが感じました。

その当時はすでに物資が不足しておりまして、主なものは竹筋コンクリート、竹の繊維を利用した竹筋コンクリートの補強で建物を作って行った時代でありました。そういう作業がまだ終わらないだいたい2月末か3月、例の通りB29など、大きな飛行機が飛んでまいります。最初来たときはものすごく上空を走ります。たいてい2機から3機、偵察をしながら飛行しているような状況でありまして、迎撃で高射砲を撃つのでありますが全く届きません。そういう状態がしばらく続いておりましたが、その上空から爆弾を軍事施設の建物に向けて落下させるという状況でありました。ところがものすごく上空から落とすものですから、ほとんどの爆弾は軍事施設ではなく田んぼの中や海の中に落ちました。それがしばらく続いた後に、30機40機という編隊が堂々と低空を走って来まして、2回ぐらいの爆撃で、陸上にあるものはすべて吹っ飛んでしまいました。グラマンなどが飛んできて完全に制空権を取られて米軍が30機40機いつも来る中で、日本軍は5機から6機がやっと逃げて回ってるような状況でした。地上におる人間や飛行機の滑走路に向けて、どんどん爆弾を撃ってくるわけです。日本人は何もできず逃げ回っておるわけです。

そういう中で作業をしておりましたが、傷ついた飛行機を木炭車で動かして、山の中を逃げて回るんです。滑走路の穴を埋めてやるのです。アメリカのグラマンやロッキードなどは重装備をしておりますので、機首がなかなか上がりにくいらしいんですね。ですのでなかなか低空までは追ってこないということで、低空で逃げ回った日本の飛行機を迎えたいのですが、滑走路を穴埋めして、やっと飛行機がおりてくるという状況でした。スコップではかなり時間がかかりますが毎日やっておりました。やはり人間の気持ちというのは変化が起こるのだと思いますが、爆弾とかで死人が出ますと最初は見ただけでもぞっとして、触りたくないと思います。しかも当たり前の死に方ではないので通常は逃げて回るような気持ちになるんですが、そのうち平然とこいつも死んでるな、と私も見られるようになって死体の中で作業を続けていました。

そういった中、大分の事務所の方にお袋から電話がかかっておりまして、陸軍から赤紙が出ているということでした。当時の私はこれまでの話のように海軍の軍属に出ているから赤紙が出ているはずがないと思いましたが、とりあえず日田に帰ってきました。佐賀の184連帯に入隊しろという命令が来ておりました。また大分の方に引き返して行きますと、当然海軍の軍属でありましたので、海軍が私が必要である、という書面をだせば陸軍にいかなくていいということで有りましたが大分では「陸軍に行った方が安全だ、外地に行く船はもう一艘もない。」ということで恩を受けました。戦争に負けるとはいいませんが、終戦が近いだろうということで、私も若くて当時はわけもわからなくて、陸軍の方に行くようにしました。6月の初旬ですが豆田町に今はない橋がありましたが、御幸通りと上町通りの真ん中に一本だけ橋がありまして、その橋の上で歓呼の声に送られまして、壮行会をしていただきました。そこから日田駅まで送られまして、佐賀に出発しておりました。そのあとだいたい4月いっぱいで大分の海軍航空隊は焼け野原になったと聞きます。アメリカ軍は6,7,8月で爆弾を焼夷弾に切り替えまして、日本全土を焼け野原にするという作戦になりました。

陸軍に行ってからの話ですが、今となっては興味深い話で最初に装備をいただきます。軍服は少年航空兵は7つボタンですが、やたら短いのです。洋服を倹約しているんです。ボタンは竹です。水筒は竹のポンポンに紐をつけたものです。飯ごうはありません。3人に1人の飯ごうです。3人で柳ごおりの弁当箱1つですが、1人が食べている間にもう一回炊きます。箸はそこらの枝を切って使って。背嚢(はいのう、かばんのこと)は布です。まん丸の布の袋の両端に紐が着いております。背負い袋です。要は背嚢はありません。編上靴(革靴)として地下たびをいただきます。営内靴(スリッパ)は内務班では履いて回るのですが、ないんです。一番最後は銃をいただきました。銃は短いです。散発銃を短縮したやつです。芯を倹約したやつで簡素化しております。みなさん見たことはないと思いますが、陸軍の騎兵散発銃をさらに短く、簡素化したような銃をいただきましてびっくりしました。シャツが2枚靴下が3枚、そういうふうな装備を全部いただきまして、一晩内務班で寝ました。夜に食事をしましたが最初は赤飯と思いました。食糧事情が悪いのに赤飯とは、新兵が入ってきたら赤飯を炊くんだな、と期待して食べましたら、コウリャンです。米粒がたまに入ってます。噛んでも噛んでも切れませんでした。食糧事情は兵隊の中でも不足していた状況です。内務班1隊で10人から12、3人、それが3内務班がありまして小隊ですが、馬もありません。3分隊と機材小隊5、6が集まり、50人ぐらいで1小隊、3小隊で中隊、中隊が3つそろいますと大隊、ということでありました。内務班の中では無線小隊と有線小隊ががありまして私は有線小隊でした。野戦で情報を伝える軍用線(電話線)の電線を張って行くわけでありますが、全部穴を掘って電柱みたいなものを立てていきます。佐賀の金立の山の中におりました。入った時は梅雨です。雨具がありませんのでいつもびしょびしょです。一番困ったのはインキンタムシです。着替えがありませんので、かならずかかります。兵隊はお風呂に入ったことさえありません。水がありませんので、不潔から原因がくるのでしょうが大変です。水を少なめに飲んでも体力を持つんだということで、ほとんどの人間が便秘です。便所で内務班を出るときには報告しなければいけませんが、便所がいっぱいです。ほとんど人間が便秘で苦労しました。佐賀の連帯から7月の中旬だったと思います。訓練が一ヶ月で終わりましたが軍用線と肥薩線の補修に人吉の方に出ました。それからは楽をしました。軍用線とは電電公社の線を利用して架線を引いておりますので、電柱が折れてないか、河川の木が引っかかってないかなど、ぶらぶら歩きながら補修をしておるような仕事をしておりました。

8月16日、部隊長命令で人吉の渡(わたり)の一勝地という場所に加藤清正岩というのがありましてそこの小学校に兵隊が集められました。新兵でありますからわからんづくで、終戦ということは全然知りませんでした。人身の被害が多すぎるのと、新兵器(原爆)が出て死亡率が高かったので、一時休戦するということでした。常勤兵は残れ、召集兵は解散、ということで、私は召集兵でありましたのでということで喜びいさみました。終戦という言い方はしません。一時休戦ということでした。

しかしそれから先は苦労しました。鹿児島本線に川があるんですが、その鉄道の橋が全部やられているんです。帰ろうにも復員列車が全く来ないんです。その時には人吉にいて食料をもらい行ったんですが、糧秣省も終戦で襲われて倉庫が空っぽになってました。退職金はすぐもらいました。一期が終わりますと2等兵になっておりましたが、私は海軍で大分に長くいたのでまだ陸軍では一期になっておらず退職金が300円でした。階級によって退職金が違いました。民間で米がありましたので買い、大豆をいってもらうとか、そばをもらうとか、その金を日田に帰るまでの道中で全部使ってしまいました。家に帰り着いたのが一月後の9月15日でありました。本当にどんなことをしても戦争をしてはいけない、助かっておるのは上部の人間で、下部の人間はほとんど死んでいる、ということです。どんなことがあっても戦争をしてはいけないと思っております。

 

 

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