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会長の時間7 平成25年8月28日(水)

2013-08-28

「ミャンマー支援について」2013.08.28

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

 

7月以来、猛暑が続いた日田の夏も、最近の雨で漸く少し涼しくなりました。

夏の疲れが出るのもこれからだと思いますので、どうぞ皆様もご自愛ください。

 

さて、創立50周年記念事業の一つ話を進めてまいりましたミャンマー・キータンゴン村の学習小屋改修事業につきましてご報告いたします。

 

今年の春先に、第2720地区ロータリー財団に地区補助金35万円の申請をいたしましたが、一旦ストップがかかりました。ミャンマーがアメリカの制裁国であるという理由です。今期から「未来の夢計画」の一環として地区補助金は地区で使いやすいようなったと理解しておりましたので、地区補助金の申請がアメリカにまで行って審査を受けるというのは意外でした。地区補助金とはいえ、制裁国への補助金は不可とするなどの一定のルールがあったのかもしれません。

 

その間、第2720地区の木村初ロータリー財団委員長が東京の日本支部と本件を通すために色々ご尽力をいただいて、最終的にアメリカのロータリー財団本部の審査を受けることになりました。

アメリカから「米国財務省資産管理局審査用チェックリスト」の提出を求められたのには驚きました。11項目のチェックリストを織田財団委員長とミャンマー窓口とのメールのやり取りで修正をしながら何度かアメリカ本部に提出しました。

 

このとき幸運だったのは、アメリカのロータリー財団本部に和田はるかさんという日本人女性がいたことです。従って、やり取りは全て日本語で出来たので意思疎通がとても良く出来ました。和田さんに伝えたのは、実際に現地を視察したこと、ミャンマー人が貧しくても非常に教育熱心で将来有望な民族であること、この国に自由と民主主義を根付かせて東南アジアの発展に寄与させることの重要性等でした。和田さんが、アメリカ本部で同僚と上司に強力に説得に当たって頂いたことと推測します。

 

その結果、先日、漸く財団から承認が下りました。

ミャンマーへの事業申請も初めてなら、承認も世界で初めてのことのようです。

既にオバマ大統領もミャンマーを訪問しておりますし、現在でもヤンゴンには大きなアメリカ大使館があります。やがて、ミャンマーへの制裁も解除されるものと確信しますが、ロータリークラブのないミャンマーへ世界で初めて財団の補助金を使用できたということを大変うれしく思います。

これからは他のロータリークラブからもミャンマーへの支援が増えるものと期待します。

 

改めまして、木村財団委員長、東京の関係各位、和田はるかさんとアメリカ財団本部の各位に感謝と敬意を表します。

 

これから、支援の具体化に向け行動します。10月には現地を訪問する予定です。

お彼岸など 平野会友

2013-08-28

専念寺 平野法好 会友 2013年9月18日

 

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本日は週報を見ていただくとわかりますように、江田会友の卓話でしたが急に来れなくなったということで3時間前になって卓話をしてくださいということでしたが、今日はまだましな方です。私は昭和62年の10月31日に入会させて頂きましたが、その時は食事が終わりかけた頃になって、今はもう退会されましたが江藤会友に「何でもいいから卓話してくれ」といきなり言われたことがあります。話は下手で不勉強ですが、職業柄で話せと言われれば1時間でも話す内容があります。今から9年前、(プログラム委員の)宮崎先生の奥さんから雛供養をしませんかといわれまして始めた活動が今では全国規模になっておりますし、江田さんも玉川斎場で誰よりもうちがお世話になっておりますし、うちの門徒さんでありますので(卓話を)断る材料はありませんでした。バタバタ用意してですね、卓話になるかわかりませんがよろしくお願いします。また私は本日2時間しか寝てない悪条件です。なぜなら宗議会議員選挙がありました。参考のためにせっかくならお話をさせて頂きますと私の寺は真宗大谷派ですがいわゆるお東さんです。浄土真宗にも10派あります。最近では東の中でさらに分裂しまして11派あります。日田は天領であった関係で東が多いのです。豊臣秀吉に西から東に強制的に転派されたところが多いのです。日田で西は3つしかありません。その西の照蓮寺さんでは絶対に転派しないと言い張って殺された総代がいると聞いたことがあります。私の所は真宗大谷派(東)であります。日田は数の上では東が多いわけであります。真宗大谷派は全国をいくつかの教区に分けております。行政で言えば都道府県のようなものですが、こちらは日豊教区といいまして昔の豊前豊後が日豊教区になります。その教区を統括するところが宇佐の四日市にありまして、先ほど選挙と申しましたのがこの日豊教区から2人代表者を選出するものであります。私は選挙の立会人ということで一日中投票所におりましたが、1日がこんなに長いものかなということを感じました。教区の中でさらに細かな枠組みを組(そ)といいます。日田は日田組(そ)です。年齢的に仕方ないんですが私がその組長(そちょう)をしております。文字で書いたら「くみちょう」です。今回は浄満寺のご住職が教区の議員に立候補した訳であります。やはり議員は地元から出したいので、私も努力しておったのですが、浄満寺の住職は見事トップで当選を果たしたのであります。その関係で3時から4時ごろまで飲み明かしておったのであります。こういう機会もないので説明をさせて頂くと、寺の建物と敷地を「坊」と申しますが、それで住職の事を坊主と言います。そして坊主の奥さんを坊守といいます。若い住職のことを若いご院家で若院というんです。若院会という組織もあります。昨日の選挙では若院達も選挙運動員として駆り出されまして、そのうちの一人がうちの若院でした。選挙では組長のお寺が投票所になるのが通例ですが組長には投票権がありません。また組長と関連がある若院の運動員がいる所も投票所にはできないということで、願正寺さんをお借りして投票所にいたしまして、朝の7時から夜の7時まで若院と坊守と皆総出で管理しまして、私はそのあと投票の終わった箱を宇佐まで持って行って、それから開票をいたしました。4年前の開票は夜中の三時まで開票がかかりました。昨日は12時に当確が出ました。それから3時過ぎまで飲んでおりましたので体がとても正常じゃありません。

さて本題ですが、資料を2枚お配りしました。1枚はお彼岸の話です。もう1枚は以前卓話をさせて頂いたときに話したかった「辞世の句」であります。そのときは話す暇がなかったんですけど未練がありました。ばたばた資料を探したんですけれども、上人がいよいよ亡くなる時に残した句であります。最初の句は「邪魔になる自力を捨てて、今ははや弥陀の御国のたのもしき哉」。この句を残して数分のうちに亡くなったということであります。亡くなって121年でありますが、121年前での87歳はそうとう長生きだったと思います。自力他力という言葉を聞かれたことがありますか。特に真宗は親鸞上人が残した教えでありますが、すべては他力からであります。まず生まれてきた時点が他力です。みなさんこの世がおもしろそうだ、と思って生まれてきた人はいないですよね。物心がつくのは3歳ぐらいでありますが、それまでは無意識です。全ては自分が気がつかないところで他人の世話になって生きております。すべてが他力、ということであります。みなさん座られておりますが椅子がなかったら何分同じ格好でいられますか。その椅子も床がなかったら立ってもいられません。空気一呼吸からしてお恵みです。水がないと全てのものはやっていけませんが、水一滴が大事なこともあれば、ありすぎれば去年は日田でも大水害でありましたが、昭和学園も浸かったように災害にもなります。全ては他力によるものです。人間はその中からわずかな自力を出しているに過ぎません。私たちはどうかすると、人にしたことばっかりを言いしてもらったことは忘れます。反対の方がいいのです。してもらったことは忘れずしてあげたことは忘れましょう。しかしなかなか煩悩を抱えている我々にはできません。この句は自力について「今ははや弥陀の御国のたのもしき哉」と、なかなか死ぬ直前にこのような辞世の句の気持ちにはなれませんよね。二つ目は「出かけてはまた立ち返る時雨哉」。この句は一度危篤状態になりまして元気になった時の詠です。西光寺さんの当時の住職(せっすいさん)と五岳上人はツーツーの仲だったといわれてますが、五岳上人が危篤状態になったと聞いて、慈眼山のふもとの西光寺から隈まで歩いて参りまして「私は(五岳上人が)亡くなったと聞いたので、枕木をあげにきました」とまだ生きている五岳上人に(わざと)言ったそうです。仲良しだからこそ言える言葉を聞いて起き上がって筆と紙をとってこの句を詠んだということです。そして五岳上人の最後の言葉「いざ西へ向かいて 先に出かけ候 そろそろござれ あとの連中」です。これは亡くなる数分前に詠んだ歌だそうです。なかなか死ぬ直前にこうは詠めないと思います。ある宗の高僧は亡くなる数分前に「死にたくない」と3回言って亡くなったという話がありますが、笑い話ではなくそれが私たちの本音だと思います。結局はみんな死が怖いんです。「いざ西へ」とは西方浄土でありますが、先に参りますのであなた方はゆっくりしていてくださいということです。ご紹介させて頂きました。

お彼岸についてですが、中西さんの協力もありまして地元新聞に出さして頂いたこの記事は購読率が高くてかなり好評でした。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが春の彼岸と秋の彼岸で、同じ中日でも秋のお彼岸の方が10度から14度ぐらい温度が高いのです。彼岸は彼(カ)の岸と書きまして、私たちのおる世界は此岸(しがん)と言います。私たちの住んでる国(此の岸)で私たちは口に出さなくても自己中心的になっているんです。案外自分の事は気付かずに人のことはよく見えるんです。お参りするときに蝋燭をともしますが、どうして蝋燭をともすかというと、仏様の教えを光に変えて、自分の姿をしっかり見るということです。そこで本当の自分の姿を見い出すということです。法話で隣の家の障子が破れているのを見て笑っていた人は、自分の家の障子の穴から見ていたという話がありますが、自分の事には気付かない、人のことにはよく気づくんです。去年の5月ですが、スマイルさせていただいたことがありますので記憶がありますが付近で火災が発生いたしました。門徒のお葬式が終わってすぐの初七日のお膳の時で、お寿司のおこぜにいってたら、友達から電話がかかってきて私の寺の納骨堂からものすごい煙が上がっているというんです。距離でいえばおこぜから2、300mなのですが確かに大きな煙が上がっていて、1分か2分かの間にハッと思ったことを覚えているんです。先代の住職が言ったこと思い出したのです。先代は本堂が燃えたら責任をとって本堂の火に飛び込むと言いました。そのことを思い出したわけです。大山に西林寺とありましたけれども前の住職がもう亡くなった寺ですけども、昭和25年に本堂が火災にあって、燃えてしまったんですよ。その時に住職として責任を感じたのでしょうか炎の中に飛び込んだんですよ。幸い近所の人がすぐ引っ張り出して重症は免れましたが、それを思い出したんですね。結局火事は本堂が燃えてるような気がしましたがそうではありませんでした。で、そこからが問題なんですが、「ほっ」としました。いつの間にか無意識のうちに、本堂じゃなくて良かったと思ったんです。つまり極端に言えば自分の家じゃなかったから良かったって事です。この前人の家に行ったら「病はこの家を避けて通れ」とお札がありました。どの宗教かわかりませんが引き破ろうかと思ったぐらいですが、それは病が隣の家ならいいってことじゃないですか。恐ろしいですね。そういう時、まさに御釈迦様の教えを思い出すのですよ。その時にはKCVに専念寺付近って出たので大丈夫かって心配して頂いて、電話がたくさんかかって来ました。若い人も多く集まってきて「野次馬が多いなぁ」といってましたが、隣の人が「お前もその一人じゃないか」と言っていました。自分のことは気づかないってことです。さてあっちとびこっちとびの話でよく分からない話になりましたが、一応時間になりましたのでこの辺で。

 

ミャンマー学習小屋改修プロジェクトに補助金が認可

2013-08-28

織田ロータリー財団委員長

先ほども会長から報告がありましたように、ミャンマー学習小屋改修プロジェクトに、補助金が認可されました。我々も少しホッとしているところであります。本部と橋本会長の熱い対話がありまして、重い扉が開いたのであります。地区の広報木村部長ほかご尽力頂いた方に大変感謝しています。

会長の時間6 平成25年8月21日(水)

2013-08-21

日田ロータリークラブ副会長 田嶋 篤

会長のスローガンの一つでもあります親睦ということでありますが、久しぶりの夜間例会でもあります。遊船も亀山亭さんが新造船の船を出してくれるということですので、ゆっくり楽しんで親睦を深めて頂きたいと思います。

2時間くらいの短い時間ではありますが、よろしくお願いします。

納涼例会スナップ

2013-08-21

亀山亭の屋形船で、軽装で楽しみました。

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会長の時間5 平成25年8月7日(水)

2013-08-07

2013.08.07「歴史と体験」

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

 

終戦の日が近くなりました。戦争は20年8月15日に終わりましたが、私は昭和22年の生まれですから、本や写真などで知った知識としては知っていますが、僅か1年半前に終わった戦争のことは体験としては全く分かりません。

 

物心のついた頃(多分昭和26年前後、日本に主権のない占領下でしたが)のことは少し分かります。

例えば、米軍の戦車を何両も積んだ貨車が、日田駅で流される「アニーローリー」の曲に送られ、夕日に照らされながら久留米方面に向かっていた光景が今でも目に浮かびます。今思えば、まさに敗戦国そのものですが、当時は分かるはずもありませんでした。

 

知識としての歴史は遠い昔のことのように思えますが、例えば、昭和20年時点でいえば、戊辰戦争から77年、日清戦争から50年、日露戦争から40年しか経っていません。

ですから、最近まで少なくとも日清・日露戦争を体験された方が沢山おられた訳です。

昭和40年代頃はまだまだ明治生まれの方は沢山いらっしゃいました。

 

同じように、昭和40年以降に生まれた人は、終戦時のことはもとより、昭和20年代30年代のことも肌身に感じることは出来ません。

 

少しでも、前の世代が次の世代に体験を語り継いでいくことが、歴史を学ぶ上でも大いに役に立つものと思います。

 

ところで、奥野誠亮(おくの・せいすけ)さんという大正2年生まれの100歳の元政治家がいらっしゃいます。この方が、先日こういうことを新聞に書いていました。

 

「占領中は、日本の国会も政府も自主的活動はできませんでした。国会へ法律を出すのも、審議で修正するのも、その議決が賛成でも反対でも、事前に連合国軍総令部(GHQ)の承認を受けなければならなかった。憲法も同じです。こういうことを若い人に知ってほしい」

私は、そこまで国会がアメリカ軍のチェックを受けていたとは全く知りませんでしたが、考えてみれば、主権が無いのですから当然のことです。

 

今日は、青柳会友の体験談を楽しみにしたいと思います。

青柳寿人会友の卓話

2013-08-07

 

 

会員卓話

青柳会友

六月の夜間例会の時でありましたか、橋本会長とちょっと話をしている中で戦争の話が出まして、いくつか話をしましたところ今は実体験を話をする方がいないので、戦争の話をして頂けたらということでしたら、プログラム委員会の宮崎さんからぜひ卓話をお願いする、すぐ話がきました。そのうちまとめられると思っていましたら時間もなく、今日は思いついたことを適当に話そうと思っています。

私は昭和2年生まれで82歳になります。このクラブでもっとも年寄りになると思います。昭和の一桁の前半生まれは何人かいたと思いますが、その中でも私が一番上だと思います。私が米軍の攻撃から逃げ回ったことも、戦後68年になったということで、記憶も薄くなってきて思い出すこともありますし、どう考えても思い出さないこともありますし、年齢的なものからボケがきているものかはわかりませんが、みなさんにこういうことをお伝えしたいということを思っていると適当な言葉が出てこない。文字にしようとすると半分以上が感じが出て来ない、ということで間違いがあるかもしれませんがお願いします。

ちょうど今100歳の方は大正2年生まれでありますが、大東亜戦争当時はその方達が30歳であります。私が生まれた頃は戦争というものは認識はできていましたが、体験するものは少なかったものでございます。お話することはまず一番に私が物心ついた時には物資が不足しておりまして、すでに配給制度になっておりました。今のちょうど日田の街の中で、筑邦銀行の敷地が日田の米の配給所でした。日田の中で一軒しかお米を取り扱う場所はありませんでした。その場所では家族構成を聞かれて、米をもらっていました。衣類も切符制で、たばこお酒をはじめ、すべてのものが配給制か、切符制でありました。タバコも刻みタバコしかなくて、薄いタバコ紙を巻いて木の台の上で作るのであります。お酒は当然切符制でなくて、お祝いがあると、結婚式や出兵がある時に申請をして市役所からもらってくるものでした。あとは闇で作って飲むしかありませんでした。

昭和16年12月8日に、ニイタカヤマノボレという号令が発令されました。大東亜戦争に突入しましたのがその日です。支那事変が既に始まっておりまして、いよいよ物資が少なくなっておりまして、街中を歩いていても中年がおりません。病人か年寄りか婦人しかおりません。女子も挺身隊と名前がついておりますが、20から40歳の方はほとんどおりません。国防壮年会、国防軍人会などがありましたが、何をやっていたかと言いますと、バスケットボールゴールみたいなものがありまして、その真ん中に網もありませんで穴が空いております。その下に桶がおいてありますが、それを何に使いますかと言いいますと、防火練習です。川から50mぐらいの距離で水を貯めるバケツリレーをしておりまして、その穴にいれるわけであります。町内で対好試合をやっておりまして、水が一番たまった町内が優勝であります。竹の棒を藁縄でまいて長さ消防のまといみたいなものを作りまして、火を叩き消す練習を始めて、まだ空襲のなかった時代ではありますが、今考えると幼稚ではありますが、兵隊さんが頑張っているので、町は自分達で守るということで皆必死にやっておりました。我々は15歳で国を守るんだ、という気持ちでやっておりました。

もう一つは食料の増産であります。ほとんどの街という街の畑でといも作り、野菜作りを行っていました。また土地を持たない人は山田原などの原野を切り開いて蕎麦を作りました。蕎麦は肥料がいらなくてすむということで作りました。その後サトイモ、トイモを作りますが、一回目、二回目まではイモも出来ますが、3回目になると地力が落ちてできません。その当時はそういうことで町内でで仕事に出た記憶がありまして、林工に出て行きました。農繁期はほとんど学校に出て行った記憶がありません。クラス別に指定をされておりました。その部落に行くとじいちゃんばあちゃんが待っておりまして、各農家の加勢をしておりました。そういうことで軍事訓練、開拓、農家の加勢などが主な役割でした。婦人会も防空頭巾ともうしますか、訳40cmの四方ですが、頭にかぶれるように布を作って首をかけて、久留米絣というものでしょうか、衝撃を和らげるために綿を入れたものでしょうか、あとは水筒、それが必需品としてそとに出る時は歩かなければならないということで、かっこのいいものではありませんでした。私は小学校に入った時には靴がありませんでした。私は兄貴がおりましたが、お下がりでまともな服を着たことがありません。非常に貧困な時代でありました。

私は事情がありまして、昭和の17年に入っておりましたが2年で中退をしまして就職をしました。呉海軍施設部ということです。家におればすぐ徴用にかかるということで広島の呉にまいりました。その頃は海軍の飯を食った訳でございます。鎮守府は横須賀鎮守府、佐世保鎮守府、呉鎮守府の3つがありました。それ以外に要港というものがありまして青森の大湊、京都の舞鶴、朝鮮の木浦(モッポ)、台湾の基隆(キールン)の4つの要港がありました。そこに施設部というものが一つずつ存在していました。そこに配属になりました。私の兄が昭和14年に合格して霞ヶ浦海軍航空学校というところにおりまして、少年兵になっておりました。卒業しまして昭和18年の暮れに鹿児島の鹿屋から前線に飛びたつということで電報が参りまして、これは誰かが内緒で送ってくれたのでありますが、夜行列車で何時何分に鳥栖を通るということで面会したいということでありました。そのときに父親が所用がありましたので、お袋がぜひ会いたいということで送っていきましたが、話す時間がありませんので鳥栖から熊本まで一緒に汽車に乗って、汽車の中で兄貴を送り出した記憶があります。兄貴は昭和19年に戦死しましたという報告がありました。佐世保の鎮守府で遺骨を渡すということで、父も母も体調を壊しまして、遺骨の受け取りをしました。その後に呉の方に行きました。呉の方で2ヶ月ぐらい訓練を受けまして。今でいう大分の築城、宇佐、大分、高鍋、宮崎などが海軍の航空基地としてありましたのですけれども、その管轄が九州の佐世保から呉の方に管轄が変わったという関係で大分に19年の6月にそこに転勤になりました。大分の方で働いた訳でありましたけれども、大分の方にはすでに今津留の陸上競技場のところに航空隊が空港でありました。航空廠の跡地は今の岩田学園になっております。空港と航空廠その中間のところに私の事務所がありまして、大きな事務所でした。空港と航空廠の修理工場を往復できるよう大きな道路ができておりまして飛行機が離合できるようになっておりました。道路の枝葉が別れて、ゼロ戦の支援をできるような建物、構造物をそのものが格納できるようになっておりまして、私はその地下に潜って整備する仕事が一番多くなっておりました。山沿いに牧、高城という部落がありましが、今の護国神社あたりが高城というところでありましたが、大分には他に春日浦に水上飛行機の工場がありました。大きなトロッコみたいなもので海の中まで滑り込んでいくしくみになっておりまして、格納庫に引っ張り上げる工場がありました。高城のところにはエンジン専用の修理工場にありました。鉄筋コンクリートの5階建ての建物で、4機か5機かいっぺんに試運転できる建物がありました。飛行機エンジンは丸でございますのでボルトで固定してエンジンをかけています。防音をするためにマフラーがわりに天の方に音が吹き出るようになっております。春日浦には魚雷の工場がありましたが、そこでグラマンB29で死人が多く出まして、直撃弾で人間がどのようになるか、至近弾を受けた時にはどのようになるか、耳は3時間か4時間たたないと聞こえなくなるなどの話があります。また私は陸軍の方で金平糖一つで1ヶ月半鍛われた経験もありまして、まが話は序の口ですが時間が来ましたので、機会がありましたらお願いします。

 

 

8月の予定

2013-08-07

8月の例会予定

8月 7日(水)午後0時30分  日田市の歴史の宿亀山亭
会員卓話 青柳会友

8月14日(水)
お盆休会

8月21日(水)午後6時30分  日田市の歴史の宿亀山亭
納涼例会 亀山亭屋形船

8月28日(水)午後0時30分  日田市の歴史の宿亀山亭
外部卓話 ダーガス・ノリコさん トルコの話

日田青年会議所60周年の案内に来訪

2013-08-07

社団法人 日田青年会議所から3名の方が、創立60周年のPRに来訪されました。

記念講演は、TVでも活躍中の 金 美齢氏 と、別冊正論の編集長 上島嘉郎氏の

日本人としての誇り
-未来を切拓く為の活きる力-

日時:平成25年8月18日(日)13:30~
会場:パトリア日田

です。

 

原道子会友の卓話

2013-07-24

8月11日にオープンする介護サービス美和などのお話しをしていただきました。

 

<卓話> 介護サービス美和 開設のご案内    原 道子会友

みなさまこんにちは。本日は若輩者の私がなんと卓話を仰せつかりました。ロータリアンにNOはございませんので、恥ずかしながらお話を進めさせていただきます。なんのお話をと思い悩みました。今回、ロータリーの決まり事である一業種一名ということでこの開業の話はいかがとは思いましたが、旬のことですので、あえてここでお話しさせて頂きます。

今回、介護サービス美和を始めさせていただきます。実は、3年にわたり企画しておりまして、もろもろの事情により(昨年の豪雨など)このように遅れてしまいました。この施設の名前の由来から説明させていただきますね。美和は、院長(原正隆会友)の母、つまり私の祖母になります。108歳まで長生きさせてもらえたのも、私どものスタッフの尽力によるものでございまして、それを少しでも他のかたに貢献できないかということが一番の理由でございます。また、病院内でのお声によりこちらにもそんな施設はないの?なんてお声もあったりして…本格的に施設の計画を始めました。

規模は、デイサービス25名、ショートステイ20名のこじんまりしたものになります。日田という地盤を生かし、木造の建物にいたしました。小さな土地にいっぱいいっぱいの建物ですが、私にとって只今唯一の宝物です。この原石を、宝石にするか、ただの石ころにするかは、これからの私達の頑張りしだいだと考えております。

今更ながら、一代で建物をたて、経営している父を本当に尊敬してしまいました。細かい細部に行き届いた建築をすることが、これだけ大変なんだとしみじみ思うしだいです。

一階のデイと二階のユニットのショートは、狭いのを感じないように、少しだけ天井をあげております。ご利用者様がご自宅にいる雰囲気に近づけるように考えておりますが、なかなか竣工した今になってあぁすればよかったのでは、とか思っています。病院勤務とはまた違いますので、まだまだ未熟ではありますし、不馴れな点が多々ありますが、皆さまに育てていただき、日々勉強したいと思っております。どうか、これから温かい目で見ていただけますと心強いかぎりでございます。

8月11日、原正隆会友のお誕生日にオープンいたします。晴れの門出に相応しいように残された時間を費やしていきます。なんだか、タイムリーなお話をいただいた皆さまに感謝をいたします。お時間をいただき、耳をお貸しくださいましたこと、本当に嬉しく思います。本日はいろいろありがとうございました。これをもちまして、終わりにしたいと思います。

 

 

玖珠RC会長・幹事来訪

2013-07-24

玖珠ロータリークラブの吉光会長と日野幹事が来訪されました。

2013九州B-1グランプリin日田大会をPR

2013-07-24

日田市観光協会の木下周さんが「2013九州B-1グランプリin日田大会」のPRと協力の依頼に来訪されました。

 

2013九州B-1グランプリin日田大会のフェイスブックページ

 

会長の時間4 平成25年7月24日(水)

2013-07-24

 

「四つのテスト」  2013.07.24

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

 

暑い日が続きます。先日、ウナギを食べにいって、土用って何だろうと思って調べてみました。

土用とは、立夏・立秋・立冬・立春の直前約18日間のことだそうです。

今年は7月19日が土用の入りで、7月23日が大暑、8月7日が立秋です。

8月7日といえば、まだまだ暑い盛りですが、そこを秋の初めとするとするシナの古典は素晴らしい。現象は盛りに見えても人間の感じないところで物事は変化を始めているということでしょうか。

深い哲学があると思います。

 

さて、日本では土用の丑の日に、暑い時期を乗り切るためにウナギを食べる習慣があります。

この由来については諸説ありますが、平賀源内(1728年 – 1780年)が発案したという説が最もよく知られています。

それによると、商売がうまく行かないウナギ屋が、夏に売れないウナギを何とか売るため源内の所に相談に行くと、源内は、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めました。すると、そのウナギ屋は大変繁盛し、他のウナギ屋もそれを真似るようになって、土用の丑の日にウナギを食べる風習が定着したといわれています。

 

最近では乱獲が過ぎてウナギがいなくなるのではないかとも言われます。ダムや堰もウナギが川を遡上できない原因の一つです。マリアナ沖で生まれたウナギが遠路日本にたどり着き、人工の堰の手前で死んでしまうのは余りに不憫です。ヨーロッパではウナギ遡上用の水路が設備されているのをテレビで見ましたが、日本も何らかの対策があって良いのではと思います。

 

さて、週報の絵の上にスペースがありますので、今週から四つのテストを掲載することにしました。昨日、日田中央ロータリークラブを幹事と訪問して参りましたが、彼のクラブでは、例会の初めに毎回、職業奉仕委員長が先導して唱和していました。

この四つのテストを載せるにあたって、スペル等に間違いがあってはいけないと思い、インターットで調べましたところ、各クラブにかなりバラツキがありました。複数であったり単数であったり、

「the」があったり、なかったりです。

 

いまや、「四つのテスト」は100か国以上の言葉に翻訳されているようですが、この日本語訳についても十分なものかどうかは分かりません。ですから、まずは原文に当たる方がその真意を理解するのに正確かと思います。

 

例えば、「言行はこれに照らしてから」も英語のthink の訳語が脱落しています。

「みんなに公平か」についても、原文にはconcerned:「かかわりのある」「利害関係のある」が抜けています。「みんな」とすると全ての不特定多数の者を対象としている感もあり、少し違うのではないかとも思います。

the TRUTHについても、なぜここにだけtheが付くのか良く分かりません。ただ、「真実」という言葉で片づけてよいものかどうか分かりません。一説によれば「神の御心」という説もあるようです。

 

ロータリー計画の職業奉仕部門推進の一方法として国際ロータリー理事会がクラブの注意を喚起した「執務上の心得書」には

○ 四つの簡単な質問から成る総ての人間関係の便利な尺度

○ 人に要求するものではなく自分自身の反省の具とするもの

○ この自己反省方式を国際ロータリーは高く評価

「ロータリーにおける諸奉仕活動・特に職業奉仕における指針として常用するにいたる」と書いていますが、特に「人に要求するものではなく自分自身の反省の具とするもの」ことが重要であるかもしれません。また、RI理事会が「これを規則として取扱ってはならない」と勧告(55-56)のもそれなりの理由があるのかもしれません。

 

なお、先週の例会でお話ししました海軍兵学校五省をお手元に配布しております。これは東郷元帥の書かれたものだそうです。

一、 至誠(しせい)に悖(もと)るなかりしか

一、 言行(げんこう)に恥(は)づるなかりしか

一、 氣力に缺(か)くるなかりしか

一、 努力に憾(うら)みなかりしか

一、 不精(ぶしょう)に亘(わた)るなかりしか

 

(以下、ウィキペディアより)

考案者は、当時(昭和7年)、兵学校校長であった松下元少将。

今日では帝国海軍の精神を象徴する標語であるかのように語られることがあるが、五省が兵学校校舎に掲げられるようになったのは国内の軍国主義的色合いが濃くなり始めた1932年(昭和7年)からであり、その採用期間は海軍70余年の中でも末期の10数年間に過ぎない。古参の海軍軍人の中には、文語調箇条書きの五省を生徒に唱和させることについて、「(リベラリズムと柔軟性を重んじた)帝国海軍の伝統になじまない」として不快感を表明する者も少なからず存在した。

 

しかし、一方で、戦後に日本を占領したアメリカ海軍の幹部が五省の精神に感銘を受け、英訳文をアナポリス海軍兵学校に掲示したり、日本国内でも、海上自衛隊が日々の行動を自省する標語として用いたりしている。現在、海軍兵学校の後継にあたる海上自衛隊幹部候補生学校及び海上自衛隊第1術科学校では、五省が旧海軍の伝統として継承されている。

 

会長の時間3 平成25年7月17日(水)

2013-07-17

「至誠」 2013.07.17

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

 

先週、ウズベキスタンで日本人捕虜が陰日向なく働いたという事をお話ししましたが、そのあとで、この会場にいらっしゃる当時若者であった先輩たちに「なぜ彼らは真面目に手抜きをせずに働いたのでしょうか」とお伺いしたら「当時は『修身』や『公民』や『教育勅語』があったからな」というご感想でした。

 

そこで私は第三期(大正7年~昭和8年)の「尋常小学校修身教科書(四年生)」を調べてみました。

目録には「勤労」「信義」「誠実」「博愛」など二十七の項がありましたが、最後の第二十七項「よい日本人」が、今回のエピソードの背景つまり当時の日本人の身の処し方の理由に一番近いのではないかと思いました。

 

そこには「(略)大きくなっては志を立て、自立自営の道をはかり、忠実に事にあたり、志を堅くし、仕事にはげまねばなりません。けれどもよい日本人になるには至誠をもってよく実行することがたいせつです。至誠から出たものでなければ、よい行のように見えてもそれは生気のない造花のようなものです」と書いてありました。

 

 

確かに、陰日向があってはとても至誠とはいえません。海軍兵学校の五省の中の第一番目に「至誠に悖るなかりしか」とあります。

 

大地震でも無傷だったナヴォイ劇場も、一つ一つの作業を疎かにしない至誠によって出来た建造物だったといえます。

 

誠意を尽くすというのは、かつて日本人の徳目の中で大きな比重を占めていたようですが、現在でも、日本製品の品質の良さなど、まだまだ誇れるものがあると思えますが、今後も継続して行けるものでしょうか。

 

日本人は真面目すぎて融通が利かないような点もあり、また、誠意の通じがたいような国もありますが、長い目で見れば、誠意を尽くすことが他国から信頼を得る王道なのかもしれないと思います。

 

クラブ協議会 各委員会方針発表

2013-07-17

クラブ協議会で各委員会の理事が今年度の運営方針を発表しました。

50周年実行委員会

 

 

SAA

 

プログラム委員会

 

会員増強維持委員会

 

奉仕プロジェクト委員会

 

国際奉仕委員会

 

広報委員会 写真はありません…

青少年奉仕委員会

 

ロータリー財団委員会

 

クラブ管理運営委員会

 

日田中央RC古賀会長、木下幹事、大分第一分区河野ガバナー補佐来訪

2013-07-10

日田中央ロータリークラブから古賀会長と木下幹事が来訪され、あいさつをいただきました。

 

また、大分第一分区の河野誠男ガバナー補佐が来訪され、アドレスをいただきました。

 

 

新入会員

2013-07-10

江田さんが入会されました。

会長の時間2 平成25年7月10日(水)

2013-07-10

「日本文化の底力」

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

 

今は本当に便利な世の中になりました。先日、参議院の予算委員会で、とても良い質疑があったと聞きましたので、ユーチューブで探しましたら、その全質疑を見ることが出来ました。

それは、中山恭子議員と麻生副総理との「日本文化の底力」についてのやりとりでした。

 

中山議員は元外交官で、中央アジアのウズベキスタン大使を3年間務められましたが、この国は非常に親日的なのだそうです。日本とは無縁に見えるこの国がなぜ親日国家なのでしょうか。

 

この国には、終戦後、シベリアを経由して2万5千人の日本人捕虜が、劇場、運河、鉄道、発電所などの建設に従事させられました。

 

この質疑の中で、麻生副総理は1997年に日本の閣僚として初めてこの国を訪問したときのカリモフ大統領とのエピソードを次のように紹介しました。

 

終戦当時、カリモフ大統領は子供でしたが、毎週末、母親に連れられて日本人の働く現場に連れていかれたそうです。そして、毎週母親が言った台詞は「せがれ、ご覧。あの日本人の兵隊さんを。ロシア兵が見ていなくても働く。お前も大きくなったら、人が見ていなくても働く人間になれ」だった。「母親の言うことを守って、今日俺は大統領になれた」と。

 

この部隊は混成部隊で、当時のあらゆる階層の普通の日本の若者たちですから、全ての若者が身につけていた所作です。

 

帰国の見通しもない中、日本人として恥ずかしくないものをと陰日向なく働いた2万5千人の日本の若者たちが、今日の日本とウズベキスタンの関係の基礎になっていることは間違いありません。

 

当時造ったナヴォイ劇場は、1966年の大地震で首都が壊滅したにも関わらず、無傷で残ったそうです。それにより「日本人は手抜きをしない」という評判が広がったと言われます。

カリモフ大統領は、独立後、その壁面プレートに刻まれていた「日本人捕虜」を「日本国民」に書き直させたそうです。

 

このユーチューブの映像を見て、私は、私だったら、或いは今の日本人だったらどうするだろうかと考えました。

理不尽にもソ連によって強制連行されたのですから、一生懸命働く義理はありません。ロシア兵の監視がなければサボタージュするかもしれません。或いは、当時の人と同じように現地の人の為により良いものを残してやろうと考えるでしょうか。

 

なぜ、当時の若者は陰日向なく働いたのでしょうか。長い歴史の中で培われた日本の文化のお蔭でしょうか。それとも教育のせいでしょうか。

この会場にいらっしゃる当時の若者たちにもご意見を伺いたいものです。

 

今の時代、戦後生まれが大部分を占めて、体験としての当時のことが分からなくなっています。

今期は、当時、体験されたことを会員卓話していただきたいと考えておりますので、よろしくお願いします。

 

7月の予定

2013-07-04

7月の例会予定

7月 3日(水)午後0時30分  日田市の歴史の宿亀山亭
第一例会 会長年間活動方針

 

7月10日(水)午後0時30分  日田市の歴史の宿亀山亭
クラブ全員協議会

 

7月17日(水)午後0時30分  日田市の歴史の宿亀山亭
クラブ協議会

 

7月24日(水)午後0時30分  日田市の歴史の宿亀山亭
会員卓話 原道子会友

 

7月31日(水) 休会

 

 

前幹事に花束贈呈

2013-07-03

昨年度の幹事を務め終えたことを労い、河津会友に今年度の小ケ内幹事より花束を贈呈しました。

 

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